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"過剰なサービス"が"消費するだけの人"を育てる

こんにちは!先月末からフィンランドへ出かけていました。その理由はフィンランド国内最大級の教育の祭典"Educa"に参加するため。

コロナで2年間開催されなかったイベントで、やっと再開されるというのを聞き、どんなもんかと見に行ってみました。色々収穫はありましたが、やっぱりどの国も教育に抱えている問題はあるんだな〜。というのが正直な感想です。

その問題の共通点はフィンランドやオランダでも同じ。それをどう乗り越えていこうとするかは、それぞれの国が持っている事情やバックグラウンドによって異なると思いますが、会場からはとてもポジティブなメッセージを受け取りました。


フィンランドもオランダも静かだ…

年末年始に日本への一時帰国を終えて、オランダに帰ってきてまず思ったのは「静かでえぇわ〜」ということでした。そして、先週訪れたフィンランドもひとことで言うと「静か」でした。

「何がどう静かなの?」と思われるかもしれませんが、日本では視覚的にも聴覚的にも入ってくる情報が多すぎると感じます。何をしていても、どこにいても「広告、警告、指示、広告、警告、指示」の繰り返し…それは私が京都という比較的都会(?)に住んでいるからかもしれませんが、それを言えば、私が住んでいるデンハーグもオランダでは結構な都会で、フィンランドのヘルシンキは首都です。

それでも、公共交通機関やお店に入っても「あれ買え、これ買え、あぁしろ、こうして」というメッセージを受け取らずに済みます。では、具体的に何がうるさいと感じるのか。日本に一時帰国中、公共交通機関に乗っている時に耳から入ってくる情報をメモにしてみました。

公共交通機関で聞こえてくるアナウンス

<電車>
・お近くのドアからお降りください
・ドアの前にお立ちの際は乗り降りのために場所をお開けください
・ドア付近を広く開けてお降りのお客様をお通しください
・ご乗車ありがとうございます
・ドアを閉めます
・手荷物は他のお客様のご迷惑にならないよう、大きい荷物は前にお持ちください
・車内での会話はお控えください
・1番前の車両は女性専用車両です
・車内温度が高い場合があります
・マスクの着用をお願いします
・快適な車内環境づくりにご協力をお願いします
・次の電車をご利用ください(駆け込み乗車をしようとする人に)
・乗り降りの際にスマートフォンなどの画面を見ることはおやめください
・身体の不自由な方や、妊婦の方などに席をお譲りください
・エスカレータでは歩かず、立ち止まってご乗車ください

日本の公共交通機関から聞こえた車内アナウンス①

<バス>
・運転には十分注意しておりますが、やむを得ず急停車することがあります
・吊革、手すりをお持ちください
・交差点では十分注意しましょう
・信号を守りましょう
・席をお譲りください
・先にチャージしてください

日本の公共交通機関から聞こえた車内アナウンス②

などなど…文字を打っているだけで、停車駅に着きそうでした。笑

このうち、私がオランダの公共交通機関で聞いたことがあるのは、太字のものだけです。正直、1番はじめの「お近くのドアからお降りください」なんて「言われんでもわかってるわ!誰が窓から降りるねん!笑」と思ったくらいです。

個人的にはそのうち、
「お降りの駅でお降りください」
なんてアナウンスも生まれるんじゃないかななんて思っています(真顔)。

「やってくれない」「言ってくれない」と言う人たち

そんなことを考えていたら、野本さんが似たような記事を書かれていました。

これ、強烈です。野本さんが書かれているように、こんな顧客には「うちが気に入らなければ別のお店でお買い物されてください」と言えば良いと思います。マレーシアに限らず、オランダでもきっとそう言われるんじゃないかな。

例えば、前に書いたようなうるさすぎるアナウンスが流れず、事故が起きた場合、必ずこう言う人がいます。

「事故が起きないようにポスターなどの注意喚起をやってくれていなかった」
「起こりうる事故を未然に防ぐためのアナウンスを言われていなかった」

そして、「そうだよなぁ、やってもらってなかったら、言われてなかったら、事故起きちゃうよなぁ。よし、対策だ!」

と、対処療法的に「未然の対策」を講じがちです…が、これって本当に本人のため、大きく言えば社会の人のため、細かく言えば、自分の頭で考えて行動する人をつくるために必要なことなのでしょうか?

与えられすぎていると、それが普通になってしまいやすく、逆に利便性が高すぎる社会に慣れてしまうと「何故あれができない?」「何故こうやってくれない?」という強烈な消費思考が加速するように思います。

「与えられすぎている」から、脳はいっぱいで動か(け)ない

また「与えられてすぎている状態」は脳が過剰に反応しているので、脳内は忙しさでいっぱい。

お腹がいっぱいになったら脳が安心してしまって稼働しなくなるように、私は脳みそも与えられすぎたら身動きがとれないようになるのではないかと思っています。

仮にそうだとしたら「過度な情報」はこれでもかというくらい風船に空気が入っていて、機敏な動きが取れない状態に似ているのではないでしょうか。別に機敏な動きを取らなくてもいいのですが、せめてゆるっと、ふわっと動けるくらいの余白がないと、個人的には自分が何者なのか見失いそうです。

まさに、私(たち)の教員生活はその通りで「人生やめますか、先生やめますか」という選択を迫られているような気がしていました。別に死にたいと思っていた訳ではありません。でも、パンパンで動けない状態で、余白がないから「自分は何者?」と問う力が残されておらず、その余裕のなさに気がついてしまった挙句、子どもを育てる身として苦しくなったのでした。

学校教育や家庭教育にも言えること

同質性の高い場所では「これはこうでしょ」という概念的なものが伝わりやすいです。こういった文化をハイコンテクスト文化と呼びますが、日本はこれの最たるものだと思います。

日本は独特な文化でこの極端なハイコンテクスト文化をローコンテクストに持っていくことは難しいというような判断もありますが、オランダの社会に生きて教室を見ていると「そうとは言えないんじゃない?」と思うようなことも増えました。

そもそも、それぞれ人間界には自分と全く同じ人間などいません(と、私は今のところ信じています。笑)。であれば、私たちは唯一無二の存在であって、「誰もみな同じではない」という出発点にいるのです。

だとしたら、何をどう見て、どう考え、どのように表現するのか、何を感じ、どう捉え、どうやって生きていくのか…それもさまざまなはずです。だけど、効率が良いから「こう見えるよね、こう感じるよね、それが正解だよ、みんなもそう思うよねぇ〜?」と、学校や家庭で話しかけてしまっているのかもしれません。

そして、それを経て究極的には「多くが納得のいくハイパー利便性の高い社会」へと到達する訳ですが、その中にどうしても一定数「完璧度100%に限りなく近くないと納得しない人」が生まれます。

そして、その人たちを認めるように、迎合するように、たぶん"黙らせるように"また「完璧な社会」を実現しようとするのでしょう。でもそれはあくまで対処療法でしかないように思います。だって、その人たちって、たぶんどこに行っても文句を言ってます。そんな人に頭を下げて「もっと良くします!」って励むことってそんなに意味位や価値があることなんでしょうか…

文句を言う人を「正義」にしてしまっているのは、周囲の人間なんじゃないかな。そんな風に思ったりします。

フィンランドからオランダに着いて、空港にあるコーヒー専門のカフェでカプチーノを注文しました。

「ごめん、今コーヒー系ないねん〜」

悪びれる様子もなくそう言う(コーヒ専門店)のカフェ店員。

「あ、そうなんや。おけ〜!」

これぐらいで良いんじゃないでしょうか。

「ないもんはないもんな」
「私も誤ることあるし、この店も誤ることあるよな」

そう思って帰路につきました。3秒後にはカプチーノのことなんか忘れて。


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