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オランダの教室で英語教育を見つめると

こんにちは!日常も通常運転に戻り、私はこちらの現地小学校でTAを務める日々に戻りました。朝8時に自転車で家を出ると、辺りはこの通り。

真っ暗やで〜

世界一平均身長が高いと言われるオランダ人の自転車爆速通勤通学ラッシュに揉まれながら、私も自転車を漕ぎます。普通に30km/h〜40km/hで漕ぐんだからすごいですよね…


プレゼント交換とアップデートから始まる朝

パートナーのSanja(仮名)と久しぶりに再会してお土産を渡し、日本からのお土産を職員机に並べることから始まりました。校長室にも忘れずメッセージとお土産を。そして、私も校長からちょっと遅れたクリスマスプレゼントをもらいました!

Sanjaがくれたのはフランスのチョコレート。
「これは真ん中のサイズね!」と笑う彼女ですが、十分でかい!

キラキラと輝くチョコレートたち

年末年始はフランスでゆっくり過ごしたという彼女の話をしばらく聞き、お互いホリデーの思い出をシェアした後に授業へ向かいました。

オランダでも数が限られているバイリンガルの小学校

私がTAを務めている小学校はオランダ国内の中でも数が限られている「公立の英蘭バイリンガルの小学校」で、保護者のどちらかが英語を話す場合や、保護者がオランダ人同士だけれどバイリンガル教育を望む家庭、保護者は英語を話さないけど(からこそ)子どもにバイリンガル教育を望んでいる…など様々な家庭の状況が存在します。

いずれにせよ、"わざわざ"バイリンガルの小学校を選ぶということは、そこには家庭の意図があって、子どもたちはこの小学校で「英語を通して」何かを学ぶことが当たり前という状況で学校生活を送っています。

オランダの他の小学校でも同じように、保護者のバックグラウンドが様々だということは、家庭の言語が異なり、それに付随して家庭の文化も異なるということ。そして、その一つひとつが尊いものだと知り、教育活動を通して経験することは「色んな文化、宗教、言語、考え方があって当たり前だ」ということを体得していくことでもあるように見えます。

今日のテーマは"Chinese New Year"

今日の授業のテーマは"Chinese New Year"ということで、もうすぐやってくる中国の春節についてリーデイングをしたり、フォーチュンクッキーを作ったりということをしました。

紙のフォーチュンクッキーの作り方

クラスによっては中国や台湾、シンガポールやマレーシアというような「春節」を文化的に祝う生徒はいたりいなかったりするわけですが、オランダの大都市にはだいたい「チャイナタウン」と呼ばれるような場所があったり、アジア料理も人々にとっては馴染みのあるものになりつつあります。

…ということは、春節はオランダで暮らす人々にとって「まったく知らないもの」ではないのです(中国のお隣の国、日本にとってもそうですね)。だからこそ「知る」というところから始める。それが「互いの文化を尊重することにつながる」という授業の意図なのです。

多様性があるから、英語を学ぶ必要性も感じる

TAを務め始めて私が1番勉強になっているのは「英語教育の捉え方」かもしれません。日本ではどちらかというと「英語教育」は言語としての存在だけで「英語が必要だから英語を学ぶ」という理由以上のものが語られることが少ないまま英語教育が行われているように見えます。

一方で、オランダの教室を見て感じるのは「英語を学ばなくてはいけない」よりも「そもそも教室に多様性があるからこそ、私たちが一緒に生きていくために英語を学ぶ」という姿勢があることです。それはつまり「多様性の存在が先」ということなのです。仮に、私が教えている子どもたちの教室に多様性がなかったら…きっと英語教育は前に進みにくいと思います。

「3年前までイギリスに住んでいた」
「家ではパパママと英語で話をする」
「おじいちゃんおばあちゃんと話す時は英語で話す」
「隣人はオーストラリア人だから英語で話すことがある」
「生まれたのは韓国で、その後はマレーシア、今はオランダ」
「南アフリカでは4年間インターに通っていた」
「来年、家族でフランスに引っ越す予定」

こんな環境を持っている子どもたちが存在する教室では、そもそも「多様性」が溢れています。「オランダで生まれてオランダ語だけを話す保護者の間で育った」そんな子どもたちもいますが、その一方で残りの半分は上記のようなバックグラウンドを持っていることも多いのです。

強い理由も環境設定もなしに英語は学べないかもしれない

言語習得は時間がかかります。私自身もオランダに住んでいながらオランダ語の進みは亀のごとく…でも、やっぱり一歩外に出ると周囲のオランダの人たちと話したい。娘が学校で学んでいることを私もちゃんと保護者として知っておきたい。だから「オランダ語を学ばない」という選択肢は私にはありません。

でも仮にそれが全くなければ、私はオランダ語を学ぶのでしょうか…?いや、きっと学ぼうとさえ思わないでしょう。人が努力を必要とする行為に及ぶには、それをしなければいけないという強い理由と、それが学びやすいという環境設定が必要になるように思います。

もちろんそんなものが全くなくとも、ただ単に「言語習得を楽しむ」という観点で言語を習得する強者もいるでしょう。ただ、それは万人には共通しないのではないかと推測します。

「英語がいるらしい」だけで子どもたちは英語が習得できるか?

だとしたら、日本の英語教育が思うように進まないこと、日本人が英語がある程度使いこなせるようにならないのは、学習者に責任があるというよりは、英語教育の環境設定が誤っている可能性が高いのではないかと思います。

もちろんオランダ語と英語は"西ゲルマン言語"として言語距離が近く、習得しやすいことは明らかですが、だからといって「英語をやりましょう!」と言ったところで、オランダの人々がここまで流暢に第二言語としての英語を話せるようになるとは思いません(ちなみにオランダは第二言語としての英語を世界一流暢に話す国として知られています)。

教室に多様性を

そう思えば、まず目指すべきは教室に言語的多様性を増やすことなのかもしれません。ひょっとするとそれは言語に限らず、文化だったり、もっと他のものだったりするかもしれません。さらに言うのであれば、日本人と言われる人たちの考え方だって多様なはずです。

「人はそれぞれ違う」「それでも私たちは一緒に生きていく」
これは、言語の多様性を受け入れる前段階に必要な姿勢だと強く感じます。今の日本の教室に、社会にこういう姿勢があるでしょうか?そういった視点でどれだけの教育活動が行われているのでしょうか?

「英語は必要だから英語を学ぶ」だけではついてこない学習者のモチベーションの裏側には、環境設定が誤っているという原因があるのではないか。そんなことを感じながら、目の前にいる多様性に富んだ子どもたちと一緒に「教室」という社会の縮図のような場所で生きていく。それは決して簡単なことではありません。でも、それを乗り越えていく過程に付随するように英語教育の発展があるのではないか。そんなことを考えさせられる日々です。

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