「寄り添ったことば」とは何か

「人を傷つけない、寄り添ったことば」が何なのか明確な答えがあるわけじゃない。
でも、ネットを通して発言が自由にできて、誹謗中傷やフェイクニュースがたびたび問題になる今だからこそ、発信するためには寄り添いが必要で、それには技術や視点がいることだというのは分かる。

NO YOUTH NO JAPANで投稿をつくったり、他の場所でエッセイを書いたりするなかで、人を傷つけたり、建設的な対話を妨げないために、言葉には気を使っています(100%できているかは分からないけど)。そして、誰かの寄り添ってない言葉を見て、無意識なのかなと思いつつ、やっぱり悲しい気持ちにもなります。

ということで、「寄り添っていない」とは何か、「寄り添う」とはどういうことか、を整理してみます。

①自分が当事者でない物事をジャッジしていないか

例えば「こういう人は幸せ、こういう人は苦しい」のように感情を決めつけているもの。経済状況だったり、就いている職業だったり、アイデンティティだったり、自分が当事者じゃない人を勝手に「弱い人」や「権力者」に仕立て上げてしまってることがあるなと思います。

例えばLGBTQの人の話をするときに、ストレート(だと思われる)の書き手が、「マイノリティとして苦しんでいる」と一括りに言ってしまうのは何かが違う。
でも具体的に事実として「~~という法律がないことが~~という困難を生んでいる」と説明したり、個人の体験として「〇〇さんはこういうことに苦しんでいると言う」のように提示したり、一まとめにせずに「マイノリティとして苦しみを抱える人もいる」としたり、そういうふうに話すことはできる。

初めて会った人に「あなたってこういう人だね」っていきなり言われたら分かってないなこいつ、と思って時に傷つくのと似たところもあるのかなと。根拠なく、自分が当事者として体感していないもののを語ってはいけないな、ということです。

②ある一面から全体を否定していないか

「これだから~はダメ」っていう書きぶりを見かけたときに思うこと。
例えば「夜の街で若者がコロナにたくさん感染したらしい、これだから若い奴は責任感がない」みたいなやつ。確かに感染リスクを考えず行動する人は批判されてもしかたがないけど、それを同年代全員に背負わされても困る。

年代に限らず、ある一部の人や物事を見て全体を否定するような言い回しは、短い文字数でシンプルに話そうとしたり、会話がヒートアップしているときに起きやすい気がします。Twitterのリプ欄とか、見ていて嫌になるぐらい議論してる両者がこれをやってる気がします。

③難しく曖昧な言葉で理解をも妨げていないか

政治における発言や、知識人層の発言を見聞きして思うこと。難しい言葉や抽象的な言葉を並べられると、何が言いたいのかさっぱりわからない。言いたいことを言ってるだけでその中身を伝える気はないんだな、って悲しい気持ちになります。首相の会見とか、日本だとこういう場合が多い気がします。

逆にいかにも分かりやすく、魅力的できらきらした言葉を並べることも、本質を伝えようとしていないという点では同じように、理解を妨げてる寄り添っていない言葉なのかもしれません。

④人の時間や感情を奪うことに責任感があるか

3つに整理してみたけれど、けっこう当たり前のことしか書けませんでした。でも、こういうことを分かっていても、寄り添いのない言葉は世の中にあふれてる。

それは自分への過信と、他者への責任感の無さのせいなのかなと思いました。

SNSの一言でも、個人で書いてるブログでも、仕事で言ったり書いたりすることでも、「寄り添いのないことば」は誰かの一日を、下手をしたら一生を、奪ってしまう。それくらいの責任感がいると思うんです。

感情的な言葉ほど拡散されやすく、発信も簡単な時代。だから際どい目を引くウケのいい表現がどんどん出回る。そういう表現が、例えば「いいね」を通して評価され、「炎上」を通して認知を獲得する。言いたいことを言いたいように言う、ということにメリットがある限り、「誹謗中傷はやめよう」といくら人が言っても、行動としての「寄り添い」は広まらない。

こういう悪質なものじゃなくても、つい「寄り添ったことば」が抜け落ちていることはあります。私も自分がいつも拾いきれているわけじゃないと思うし。ただ、目にした「寄り添いのないことば」を反面教師にしながら、「寄り添ったことば」を探して私の言いたいことを発信すること、そんなことをしていきたいなと思うわけです。

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