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”自分の存在が認められず苦しい” ”自分が何をしていいかわからない”

そんな人たちの映像をたまに見かける。それはもしや、子供の頃の教育が、意図せず不足があったのではないか、とは1つの仮説でもある。

私の父の逸話だ。私の父が子供だった頃、自宅に「ヤギ」がいたらしい。親から、その育ての担当を仰せつかった。

当時、かなり身体がひ弱だった父だが、その「ヤギ」がお腹が空くと四六時中『メ〜メ〜』と、鳴くので、草をとって「ヤギ」に食べさせなければならなかったという。

親からのミッションが複数あり考えている暇などなかった父だが、その仕事を一生懸命やった。結果としてひ弱だった父は、その「ヤギ」が成長し、出す乳をのんで、身体が大きくなった、という話だ。

もう100回は聞いているので受け流していたのが、かなり興味深い「生きるミッション」が隠されていることを知る。

犬や猫でも再現が不可能な「ヤギ」という家族。

 「自分」が食料を与えることで「ヤギ」は育ち

 「ヤギ」からは乳を与えられ、家族・自分の栄養になる。

 「自分」と「ヤギ」はお互いに世話をしあう間柄。

結局は衣食住に関わる逼迫を子供の頃に経験すると、人間の生きる真理を知る。とにかく一生懸命やってやって、やり続けた先に、何らかの結果が出てくることを知る。

おそらく、まるで考える暇など与えられなかった、というのが親のやり方だったと思う。その与えたミッションが、結果として衣食住に関わる生命の営みだったとしたら、それが答えではないか。


”自分の存在が認められず苦しい” ”自分が何をしていいかわからない”

つまり自分の力や努力で、住まい、ごはんを食べ、生きていけるかどうか。

何を仕事としてもいいが、そこに必死で考える暇など=夢中でやれるほどいい。

それが、結局は衣食住の自立。

夢中でやって、嬉しい結果を得る教育。

それを子供の頃に教えられるかどうかが「生きる教育」であって、いまの「おとな教育」にも必要なことなのではないだろうか。



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