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「病名が無かった」から、考えたこと(前半)

こんにちは、なおこです。

今回のNoteは、私が桜蔭を辞めた理由〜その悩み、本当に大きいものですか?〜 の詳細になっているので、今回のNoteをご覧になって気になった方はそちらもご覧ください。

さて、今回書くことは題名の通り、私の病気に名前がなかったことと、だからこそ考えざるを得なかったことについてです。どういうことなのか、話していきたいと思います。

私の病気には、名前がない

ある日の朝、割れるような頭痛で目が覚めました。中学三年生になったばかりの春のことです。苦しくて苦しくて、その日は学校に行けませんでした。

その日を境に、私は学校に行けなくなりました。行かないのではなく、身体が動かないんです。それに加えて、何を見ても心が動かなくなってしまいました。まるでただの人形のような状態です。しかし、私が心が動くことがありました。それは、地震や殺人などのニュースを見た時です。ただし、心が動くといっても全く良い意味ではなく、ただ悲しいのと絶望がごちゃ混ぜになったようなどうしようもない感情が湧き上がってくるだけでした。そういう時の私は、声を出さずに泣いていたそうです。

そんな日が何日か続いたある日、母が必死に探した心療内科の先生のところに行くことになりました。そこで、母が今までの私の症状を説明したあと、私が自分の心の中がどんな感じなのかを自分のイメージで説明したりしました。先生は、私の話に大げさな反応はせずに、ただ私の話を静かに聞いてくれて、少し心が軽くなったことを覚えています。なぜなら、学校に行けなくなったあと、両親は「どうしたの?」「なにかあった?」と聞いてくれたのですが、私自身なぜこうなったのかわからないし、学校に行けないことで一日中自己嫌悪に陥っている状態だったので「わからない」としか答えられず、それを答える度に落胆したり、焦る両親を見て申し訳なくて申し訳なくて「自分の存在がなかったことになれば良いのに」と考えたことは一度や二度じゃなかったからです。

専門家であり、第三者である病院の先生と話す、というのは母にとっても良かったらしく、私と母は定期的にその先生のカウンセリングを受けました。
初診から少し経ったとき、先生が「お嬢さんの病名についてお話させてもらっても良いですか?」と言われたので、母が「ぜひお願いします。」と答え、私の病名についての説明を受けました。

その説明は、ざっくり言うと「病名がつけにくい」という趣旨のものでした。今考えてみるとそれもそのはずで、当時の私の症状

・身体が思うように動かない
・夜に眠れない
・一度寝ると長時間寝ている
・目覚めても身体が動かせない
・一日中落ち込んでいる
・何をしても、何を見ても心が動かない(マイナスの感情以外)
・強迫観念や強迫行為
・幻聴(ストップウォッチが鳴る音、怒鳴り声、金切り声など)
・意欲がわかない
・急にパニックになる(泣き叫ぶ、うずくまって泣く)
・人が多いと気持ち悪くなる(最悪吐く)
・人間に恐怖を感じる
・車の音や人の話し声を始めとした全ての音がうるさい
・孤独感を感じてしょうがない
・夜が来ることや暗いところが怖い
・物事を覚えられない
・文字を読んでも文章の意味が入ってこない
・動画系(テレビやYoutubeなど)の情報量が多いものに関しては観られない
・メッセージ性の強い絵画や彫刻などの作品を観ると苦しくて立っていられない
 などなど

書ききれないので割愛しますが、症状が多すぎました。また、私は専門家ではないので詳しいことはわからなかったのですが、他にも理由があったそうです。

その話を伺ったとき、母は納得していたものの困惑していたように思います。それは当たり前です。「病名」がなければ、どう対処して良いのか困るのは他でもない家族だからです。ですが、私はなぜかほっとしていました。振り返って考えてみてると、もし、私が病名をつけられてしまったら(ここでは〇〇病とします)、私は「〇〇病の患者」として家族からも友達からも認知されてしまいます。仮に精神状態が良くなったとしても「元〇〇病の患者」としてレッテルを貼られるのです。私はそれが怖かったのだと思います。確かに「〇〇病」と名前をつけてもらった方が一時は楽です。自分がどうしたら良いのかもわかるし、周りからも同情してもらえるし、気遣ってもらえます。だけど、私にとって病名をつけてもらうということは「社会の落伍者」という烙印を押されることのように思えたのです。身体的な、いわゆる目に見える病気であれば、仮に回復すれば、回復したことが周りからもわかります。しかし、心の病は目でその病巣が確認できる訳ではありません。本人は治ったと思っていても周りからはわかりませんし、そもそも心の病になるなんて本人に問題があったんじゃないかと考える人もいるでしょう。つまり、もし治ったとしても「私は〇〇病だった」と言ってしまったら、心の病のことを知っている人ほど私を腫れ物扱いする可能性があるんです。中学三年生の私は、そのことをぼんやりと理解していたんだと思います。だからこそ、書類に書けてしまえるような正式な病名をつけられなかったことにほっとしたんです。

今までと、これから

中学生まで、私は自分の未来についてあまり考えたことがありませんでした。小学校が全員中学受験をする学校だったので、中学受験をすることに違和感はなかったですし、小学生の頃は成績が良かったので、周りにいた私と同じくらいの成績の子がみんな目指しているから、という理由で中学校も決めました。中学に入ってからも、授業の進むスピードは速いし、宿題は大量、それに加えて授業よりも進むのが速い塾の授業と塾の課題もあったので考える時間もありませんでした。ただ、授業を受けている時はいつもモヤモヤしていました。例えば、「電子がーで原子核が+なのはわかったんだけど、引き合うだけならくっついちゃうはずなのに、なんで電子は原子核の周りで付かず離れずヒュンヒュン飛んでるんだろう?」とか「このややこしい意味不明な公式ってどうやって導かれたんだろう?」というような疑問が、授業を受けていたり課題をしていると浮かんでいたのですが、それを調べる時間はなく、聞いても答えてもらえる人はほとんどいませんでした。そして、私は全く内容のわかっていない知識を詰め込み続けることに疲れ、勉強が楽しくなくなっていきました。

私がやる気を失っていく一方で、周りの子達は課題をこなし続け、成績はとても優秀な子達ばかりでした。周りを尊敬する一方で、私は自分が間違っていると考えました。疑問をぶつけても「それは覚えることだから」と言われましたし、そもそも疑問なんて持っていたら課題は終わりません。中には疑問も解決しながら進められる人がいるのかもしれませんが、私は自分がそこまで優秀ではないことを知っていました。そして私が出した結論が「私は頭が良くないから疑問を持つんだ」でした。優秀だったら私が考えているような疑問も既にわかっているから疑問じゃないんだろう、と考えたんです。

そして、私は「疑問を持つことをやめる」ことにしました。疑問を持つことは課題ができなくなったり勉強に集中できなくなるから「勉強に邪魔なこと」であり、それはつまり「良くないこと」だと思ったからです。街を歩いていれば、「電柱があの場所にたっていることにも理由があるのかな」とか「プードルはなぜあんなに縮れ毛なんだろう」とか「鳥が急に静かになったけど何かあるのかな」とか色々な気づきがあったり疑問が浮かんだりしていましたが、それら全ての思考をしないようにしました。私にとってそれは勉強ができなくなる原因であり、勉強しか自分に価値がないと思っていた私にとっては「してはいけないこと」でした。

疑問をもつことを押さえ込んだ私は、将来に対しても興味がなくなっていきました。理由はただ、楽しくないからです。小さい時から目についたもの全てが不思議で、不思議だから考えて、考えることが楽しくて…という風に生きてきた私にとっては、疑問をもたないこと、つまり考えないことは苦痛でしかありませんでした。この学校には将来の日本を引っ張って行くような子が集まっていて、だからこの道が一番正しいんだと考えていた私は、正しくない、「間違っている道」に行くのが怖かったので、このまま周りの子と同じような大学に行って、考えることは押さえ込んだまま生きて行くのだろうと想像していたのです。将来に期待していなかったから、将来について真剣に考えませんでした。ただぼんやりと、医学部に行くかなぁと思っているだけでした。

ですが、中学三年生で前述した通りの状態になって、勉強どころではなくなってしまった私は、進路を考えなければいけなくなりました。といっても、半年くらいはまともに思考できる状態ではなかったので、考え始めたのは秋の終わりくらいからのことになります。その頃には元々そんなに良くなかった成績が更に落ち込んでいて高校に進学できるか危うい状態でした。そもそも出席日数も厳しいようでした。となると、他の高校を受験するしか無くなります。ただでさえ精神的に参っている状態だったのに、今まで考えたこともなかった「進路を変える」選択をしなければならなくなって、私の心は限界でした。余計な波風をたてたくないので、たまに学校に行くときなどは周りに対して笑ってごまかしていましたし、前の私と違いがないように努めていましたが、家に帰ると疲労困憊で、にこりともできないような状態でした。進路について考えなければいけないのはわかっていたのですが、「しなければいけない」と考えるほどにしんどくて身動きがとれませんでした。

それでも無理やり身体を動かして、いくつかの通信制高校も含めた学校を見学に行きましたが、私は更にしんどくなっていきました。そんな中、紹介された学校がありました。その時紹介された学校が、私が通うことになる「N高」です。私にとって、学校のパンフレットを見て面白く感じたのは初めての経験でした。もちろん、N高が掲げている新しい教育にもワクワクしたのですが、一番感じたのは「ここなら私が何に興味を持っても、考えても、疑問を持っても許されるかもしれない」という微かな期待でした。私はすぐにN高に問い合わせ、直接担当者の方から話を聞き、すぐに入学を決めました。N高にはネットコースもあったのですが、通学しないことがいまいちイメージできなかった私はその年に新設された「通学コース」に進むことにしました。N高に進んだことで、私は本当にたくさんのことを知って、気づくことになるのですが、それは後半でお話しします。

後半に続く。

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クリスマスのトラックの画像の出典元
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