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オリジナリティとは何か〜アルベルト・ブッリの作品に出会って

何年か前に、グッケンハイム美術館で出会ったアルベルト・ブッリの作品は、衝撃的だった。
 
 ブッリは、その物質感、立体感のある作風で知られるイタリアの抽象画家。軍医として第二次世界大戦に従軍後、アメリカテキサス州の捕虜収容所で1年半の抑留生活を送る中、与えられたキャンバスと絵の具、絵筆を使って独自のコラージュを創作し始め、戦後は医者をやめて50年間画家として活動し続けた。彼の作品に向かう時、「何を言おうとしたのだろう?」とか「何の意味があるのだろう?」などと言う問いかけは微塵も浮かんで来ない。その存在の圧倒感にただただ立ち尽くすのみだ。綺麗にまとまるとか、安全に引かれた境界線など存在しない作品は、「完成された」フォルムで表現されたものとして見られるのを拒み、見るものの何かの意味を見出そうとする試みをシャットダウンしてしまう。素材として使っている木材やプラスチック、麻のずた袋、そしてそれらの材料が持つ現実。そして、その素材に向かい、処理し、キャンバスにぶつける彼の行為そのものを受け止めるしかない。

ブッリの作品

この展示は、作品の素晴らしさもさながら、一つ一つの作品についている解説もまた素晴らしかった。説明するのではなく、作品に広がりを持たせ、新たな問いを投げかけるのだ。その中でも心に残ったのは、マルセル・デュシャンが「オリジナリティ(独自性)」や「唯一性」について語っていたこと。『絵画は、アーティストがチューブに入った絵具を使って描かれるが、その絵具は、(誰かにどこかで)製造され、使うばかりに用意された製品だ。とすれば、世界中で描かれている絵画と言うものは、すでにそこに完成され、用意されたものを組み合わせて出来たものに過ぎない。』 私達は日頃、あまりにも色々なものを「当たり前」として、自分の目的を果たすために使っている。もうすでに出来ているもの、そこにあるものを当たり前に使って自分が言いたいことを言うのが芸術だろうか? それは、自分という人間を無視して、「一体何をすべきなのか」「どうやって生きていくべきなのか」と悶々とすることに現実味がないのと似ている。 これは、私が抱いている疑問、体を道具として、それで何かを表現するのがダンスなのか、体の表現そのものがダンスなのかにも深く通じるものがある。

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