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言葉の壁は心の壁(1)

こんにちは。今日も元気でお過ごしでしょうか?

今日は言葉についてです。

長年異国に住んでいて、英語もそれなりには使えるようになったのですが、上手になればなるほど、ネイティブではない私が決して越えられない壁があるのを痛感します。それは言葉の壁というよりは、自分の心の中にある壁です。どんなに発音がネイティブに近く、英語のロジックで喋れても、心は日本人で、とても情緒的なのです。言葉、体、心、空間は密接に繋がっていて、幼い頃から記憶に刻み込まれたセルフイメージと、異言語を話すことで新しく構築していったセルフイメージの間には、常に葛藤とギャップがあります。

私が初めて英語で話し始めたのは、テーンエージャーから20代前半にかけてですが、なんて軽やかで気楽な言葉だろうと思いました。英語を話していると、日本語を話すときのような慎重さはなく、スポーツカーをすっ飛ばすような軽快さが感じられ、豪快な気持ちになりました。特に、私が勉強していたアメリカ英語には、言葉と言葉の繋ぎが溶けていくような感覚があり、喋り始めると、日本人の私は誰か他の全く違う外国人キャラクターに変身していくかのようでした。その頃日本という形式を重んじる文化が窮屈でたまらなかった私は、アメリカ人のようになりたい、喋りたい思いが強く、空気をばさっと斬るようなジェスチャーで、スラスラすらっと喋る映画スターになったような心持ちで、とにかく「かっこよさ」を1から10まで真似しようとしていました。

私の感覚では、英語という言葉は、本当に具体的かつ論理的。細部までロジックに沿って説明し、主張しないと通じません。よく、「こんなに説明しないと通じないの?含蓄も何もあったもんじゃない。」と呆れ返ることしばしばで、日本語の曖昧さが恋しくなることもよくありました。「隠す美」とでもいうのでしょうか。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』にも書かれているように、従来の日本文化では、陰影が好まれ、隠れているものに価値を置くという美的感覚が尊重され、それが言葉にも現れるため、情緒的な表現が多いのかとも思います。また、日本語では、常に相手との関係や場の空気を読みながら言葉を選んでいくスキルが必要とされ、私達が普段意識せずに使っている尊敬語や丁寧語は、実は大変難解なのです。浦島太郎のごとき私は、アメリカから日本に帰国するたびに、こうした細かいことを迅速に計算して、緻密にコミュニケーションをとること難しさで、動けなくなる自分を感じまてしまいます。



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