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夏の旅はいつも軽井沢…

我が家の夏の旅は私が生まれた時には軽井沢と決まっていました。
父の海外赴任中は随分と色々な国に行きましたが、帰国後の夏は別の所に行ったことがない子供時代でした。

それを別に不満とも不思議とも思いませんでした。
夏はそういうものだと思っていたのでしょう。

当時は「アプト式」電車で横川駅のホームに白い割烹着のお弁当売の人達が並び、最後は一列で見送ってくれるという旅情緒にあふれたものでした。
後に窓が開かない電車になって窓から買えなくなり、小さいおちょこのような蓋で飲むプラスティックのケースに入ったお茶も消え、色々な変化を経てとうとう新幹線が開通し、白い割烹着のお弁当売を見る事もなくなってしまいました。

海外赴任の際に引越し、日本に戻った時に別の家に住んだ私にとって帰る場所は軽井沢しかなかったところがあります。

帰国した「母国」であるはずの日本は何もかもが新しく、私が海外で見聞きし、知っていた四季折々の食事や風習よりヴァレンタインが主流という商業主義に先導され、あらゆるものにキャラクターがついていたのも驚きました。
日本は思っていたイメージと随分と違う場所でした。

両親いずれもの祖父母の家は変わらずにありましたし、全員健在でしたがそこはあくまで祖父母の家、自分の家ではない。

私自身は定かな記憶がないのですが、帰国した年、初めての夏の軽井沢、私は入り口からのアプローチの小道を歩くのももどかしかったようで庭の対角線上を祖父母のいる家に向かって走ったそうです。
亡くなる年の夏の軽井沢でも祖母は懐かしそうに、そして嬉しそうにその話をしていたのですから、よほど印象に残る姿だったのでしょう。

その時の気持は今も変わらないのだと思います。
到着するとそれがたとえどしゃ降りだろうと、夜だろうとほほが緩み、「ただいま~」「あぁ、帰ってこられた」と心の中でつぶやきます。
家に入るときに誰もいないのに、家にむかって「ただいま」と声がでてしまいます。

そして引き上げる時も本当に毎年不思議な程切ない持ちになります。
「またね、来年も来るね」が最近では「来年もこれますように」、そして「またくるから」と決心のような言葉に変わりました。

町は大きく変わり、アウトレットができ、ホテルも沢山生まれ、昔の店は次々姿を消しています。
それでもこの家の近くはほとんど変わらず、車を悩ませる泥の道は舗装されないまま残っています。

便利ではないけれど、ホッとする場所。
こうして文章を昔は書き、今は打ちながら目をあげると緑、時に小鳥たちが遊び、いつもはダンサーを追うオペラグラスで小鳥を追う、そんなことができるのはここだけ。
心身のリカバリーにとって欠かせない場所で在り続けています。

願わくはこの空間すべてがこのまま少しずつ古くなりつつも残ることを毎年願いつつ、今年も夏の滞在を終えます。

「来年もこれますように」「戻って来るから!」と家でつぶやきながら。


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