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トシ.ヨロイヅカさんの魔法のサブレショコラノワゼット

GWに両親と父方の祖父母が眠る三田にあるお墓参りに夫と何年かぶりに行ってきた。母が去年の10月に天に召されてから半年も経ってしまった。父の時も母の時も残念ながら死に目に会えなかったのが悔やまれるが両親とはいろいろあって2人の晩年の時は私は会わないほうがいいという夫の考えもあって、両親とも兄とも距離を置き、何かあれば夫が間に入って連絡をとることになっていた。私がメンタルな病気が再発してからは夫と父と治療方針が違って夫が板挟みになってしまいかなり困っていたので、自分も夫も守るためにも両親に絶縁状を描く羽目になり、それ以降晩年施設に入った両親の世話をしていた兄から、父が亡くなった時も母が亡くなった時も、夫経由で私の体調を見計らって話しても大丈夫かなというタイミングに間接的に教えてもらっていた。父の時は、80近くになった父を坂の多い辺鄙な場所にある実家を売って施設に入ったほうがいいと兄夫婦が母と共に説き伏せて、大井町にある一時金が1000万もする高級な老人施設に入った直後に誤嚥性肺炎になって病院に移り、寒い冬になる前に緩和ケアをしてくれる施設に移ってまもない12月10日に亡くなったそうだ。今年の12月で9年になる。

父とは最後の9年一度も会わなかった。亡くなってすぐにお墓参りをしたが、嫌な記憶を思い出したくなかったので、その後はお墓からは足が遠のいていた。そして去年の10月21日に母とは最後20年間一度も会えなかったというよりもわざと会わなかった。それには理由がある。

子供の頃から、T大法学部法律学科卒業の父からは女の子らしくいなさい、勉強しなさい、24才までには結婚しなさいと耳にタコができるほど言われ続けてきた。それが半強制的ですごく嫌だった。でも、子供の頃は父はとても怖い存在で、父の言うことには喜んでしていたというよりも怖くて仕方なく言われた通り言うことを守ってきた。母は素直な女の子らしい子に育って欲しいと願って直子と名前をつけたのよ、とは昔から聞いていたが私は物心ついた頃から母とは相性が悪く、母の言うことを素直に聞けずに育った。

私が4才の時にM物産に勤めていた父の転勤でオランダのアムステルダムという街に9才まで住むことになった。当時アムスに進出していた日本企業は少なかったため日本人学校がなく、地元のオランダの学校に行くよりもアメリカンスクールに通って子供の頃から英語を身につけた方がいいだろうという両親の考えのもとで、4つ上の兄と一緒に毎日送迎バスに乗って学校に通った。アメリカンスクールに入りたての頃は日本人が他にいなくてアメリカ人のジェニーという女の子が同じマンションだということもあって意気投合してよくお互いのうちを行き来して遊んだ。何をしてよく遊んだかはあまり覚えていないのだが、明るく積極的なジェニーとはいろいろな事をして一緒に遊んだ。その中で特に覚えているのが、私達が住んでいたマンションの横が空き地になっていて起伏があったので冬になって雪が降るとそこでそりに乗ってジェニーのお姉さんと私と兄の4人で遊ぶのがとても楽しかった。ジェニーとは自転車に乗ってあちこち冒険の旅に出たのが懐かしい。家族ぐるみでお付き合いをしていて、一緒にご飯も食べにいったりもした。学校では同じクラスで、と言ってもひと学年合わせて15人くらいしかいないような少人数での授業だった。

通っていた学校は母国アメリカから離れたインターナショナルスクールだったので、授業に理科とか社会とかはなく、英語、音楽、算数、体育などはあったのは覚えているのだが、他には何を習っていたのかよく覚えていない。子供の頃からあまり勉強は好きではなく、お昼休みに友達と2人組でブランコに乗って遊んでたな、というのはよく覚えている。他にもモニカやナネットというアメリカ人の友達とも仲が良く、いろいろ遊んで楽しかった。アメリカ人の校長先生はわりと歳のいった女性で、今振り返ると70年代後半に海外のアメリカンスクールに女性の校長先生がいたのにアメリカは進んでいたな〜と驚く。

ただ、先生方の危機管理が弱く、小学2年生の頃だったか、木の板を引いて作った小さなオンボロな体育館で縄跳びをしていた時に転んで、床の木が折れていたところに左膝がグサっと刺さってかなり大きな傷ができて血も吹き出してきて、その時は校長先生のところに行って包帯でそこをぐるぐる巻きにされただけで、私も我慢強いほうだったので泣くこともなく、その日は学校の帰りに親同士も仲の良い友達のうちに遊びに行く日で、バスに乗って友達のうちに遊びに行った。そうしたら、左足の傷を見た母が慌ててすぐに病院に連れて行ってくれて、そこで急遽傷を縫い合わせる手術をすることになり、4針縫った。さすがにその足だと安静にしたほうがいいことになり、1週間学校を休んだのだが、その時に早く良くなってねというようなお手紙をみんなからもらったのが嬉しかったのは覚えている。抜糸をしてからもその傷跡はかなり残っていたがいまは薄くなってほとんど目立たなくなった。でも、手術が必要なくらいの大怪我をおったら、もし日本の学校だったらすぐ救急車を呼んで運ばれただろうな、と思うから、当時のアメリカ人の先生のおおらかさというのを感じさせるエピソードだな、で思う。

慣れない海外生活でしかも大勢のお客さんを手料理でうちでおもてなしするというプレッシャーのせいか、私が小学3年生の頃母が少し精神的におかしくなり、急遽日本に一時帰国して東京にある祖父母のお家に4ヶ月ほどお邪魔していたことがある。私はそこで初めて日本の小学校に通って友達もできて放課後は遊んでばかりいて楽しく過ごしていた。母は心配した祖母に近くのお医者さんに連れて行ってもらいながらメンタルなケアをしてもらったおかげで4ヶ月ほどそのうちで過ごしてたら元気になり、私は母とオランダに戻った。この当時母がうつ病を患っていたということは後で分かり、真面目すぎて上昇志向の強い父についていくのもやっとだったのか、その後私が22才の時に重度のうつ病になり、精神科でもらった薬を大量に飲んでしまい救急車を呼んで病院で胃洗浄をしてもらって入院し、しばらくしてから落ち着いてうちに戻るということを何度かやっていた。その度に世話をしていた私もだんだん精神的に追い詰められていき重度なうつ病になり精神科の病院に入退院を繰り返していた時期もあった。今の夫には入院中は毎週私が必要だから持ってきてとお願いするものをきちんと持ってお見舞いに来てもらい、退院した後も毎週電話カウンセリングを受けさせてくれて、たまにカップルカウンセリングにも参加してくれたりといつも気にかけてもらい、本当によく見捨てずにここまで付き合ってくれてありがたいと思う。メンタルがやられたのは母の重度なうつ病にかかわってきたせいなのは明らかで、それで夫も母が生きてる間は会わない方がいいと思ってたし私も苦しかった過去から離れて、夫とみきとの新しく楽しい生活を送ることで自分を取り戻したかった。それで、親と兄とは直接連絡をとらないことにして、今振り返るとそうしたことで私もワンコママさん達とのほのぼのとした交流を通じて本来持っていた明るい自分を取り戻し、イラストを描くというライフワークも見つかったことで毎日楽しく過ごせるようになったのでこれでよかったのだと思う。

母が亡くなってから、しばらくモヤモヤした気持ちがなかなか抜けずにいたのだが、寝る前に毎日50回やっていたかかとおとしのし過ぎで両足のかかとがすごく痛むようになり、以前ぎっくり腰を治してもらった隣町にある接骨院に何回か通ってこの時も早く治してもらった。その時に近くに評判の鎧塚さんのお店があると聞いて帰りに寄ってサブレショコラノワゼットを買ってみた。鎧塚さんは30才の時にヨーロッパに渡りそこで8年間お菓子の修行をされたそうだ。

そのサブレを食べた瞬間にその素朴な美味しさに子供の頃に料理やお菓子が上手だった母の姿がわーっと蘇り、涙が出てきた。いろいろあったけれど、母は母なりにオランダという異国の慣れない土地で懸命に兄と私を育ててくれたことにありがたいという気持ちになり、その時にようやく母のことを許す事ができた。そこまで感動して心をうごされた鎧塚さんのサブレショコラノワゼットは私にとっては魔法のお菓子だ。その感動を思わず何枚かの手紙に書いたものを鎧塚さんに伝えたくてお店の人に渡してもらった。返事はないが読んでもらったと思っている。最近ひょんなことでビスコッティのいいレシピを見つけて初めて作ってみたらなかなかおいしくできて、友達にあげたら思いっきり褒められて、若い頃よくお菓子作りをしていた楽しさを思い出し、また作ってこの幸せな気持ちを人にも分けてあげたいと思っている。

写真は、鎧塚さんが最初の修行の地として選んだスイスで地元の人達に愛されたスイーツ、トシマンデルクローネというお菓子だ。素朴な味わいのお菓子で、隣町のお店では1日限定一個で店頭に置いてある。もし見つけたら、ぜひ一回食べてみてください。


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