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中編小説 笠地蔵異聞(3)

はじめに

 笠地蔵異聞の第三話です。前の話はこちらからどうぞ。

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もう、50年ちかくも前のことになる。和宏は母の死を機に高校を中退して上京し、放送局の下働きを始めた。謳歌したわけでもない学生生活だったが、いくばくかの屈託は残った。東京まで学生帽をもっていったのはどのような心理だったか。ある給料日、帰路につき、最寄り駅で電車を降りた和宏は、支給されたばかりの給料袋がなくなっていることに気づく。あちこちに借金をしながらなんとか生活をしていた。財布には小銭ばかりである。どこにも頼れぬまま、空腹に耐え続けていたが、とうとう和宏は生きるため、食いつなぐためと自分に言い聞かせ、学生帽を手にして外に出る。
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笠地蔵異聞(3)

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 こうなってしまえば電車賃も惜しい。職場まで戻るのは諦めて、アパートの畳に身を投げ出す。あちこち少しずつ借金をしながら生きてきた。財布には小銭しか残っていない。湿った布団を頭からかぶり、つとめて寝ようとした。全てを先延ばしにしたかった。目が覚めると不安になる、不安だから目をつむる。その繰り返しが怖ろしく長く続いたように感じたが、あれは実際、どのくらいの時間だったのだろう。いよいよ腹が減ってじっとすることもできなくなり、布団から首を伸ばした時には、漠とした不安のなかに芯のようなものが芽生えていた。まずどうにかしなければならないことは食べること。食いつなぐこと。

 アパートを出た。灰色の廊下をぼんやりと見まわす。数軒隣のドアの前には、何本かの瓶をくわえた、くすんだ木箱があった。1ダースたまってから処分するつもりなのだろう。

 すい、と、手が伸びた。二本の瓶をつかみ、二軒隣からさらに一本、三本の瓶を抱えて酒屋へ行った。「はいよ。」店主から渡された五円玉と一円玉が乾いた音をたてる。尻ポケットに突っ込んで、足早に店をあとにした。

 いつもの商店を思い浮かべる。即席麺を買うにも二〇円は必要だった。他の家へ足を向け、黒い光を放つ瓶を拝借して別の酒屋へ。

 そんなことを何回か繰り返し、買えたのは袋入りラーメンが二つ。一袋目は涙が出るほどうまかったが、二袋目は不安を食べるようだった。これではもたない。生きてゆけない。

 押入れから角帽を引っ張り出し、コートの中へ忍ばせる。日はとうに暮れていた。少し歩けば町は一気に田舎の様相を呈する。湿った土の匂い、すいっちょやかなかながどこかで鳴いている。それ以外の音は、聞こえない。
畑の横の古ぼけたアスファルトを行きすぎながら周囲に目を走らせる。なにもいないことを確認して、バス停横の小屋に身をひそめた。学生帽を、目深にかぶる。さらに闇が深まるまで待って、畑に近づいた。

 背の高いネギが、ゆったり揺れていた。畝の間に身を埋め、畑の中ほどまで一気に転がり込む。道路の方を眺める。動くものは、ない。右手を伸ばしてネギを掴んだ。ずっ、と抜ける感触。それを合図に走り出す。走っては手を伸ばす。時折、ぶつり、とちぎれる感覚。いく束かのネギをわきに抱えて走った。

 夜の湿った空気に、ネギの匂いが流れている。それを振り切るように走って、どのくらい経っただろう。Y字路で足を止めると、ふいに世界が揺らぎだす。息が苦しい。膝をつく、あごが出る。石のかたまりが視界に映った。地蔵が、切れ長の目で、見下ろしていた。

 灰色の視線が突き刺さるようで、和宏は角帽をかなぐり捨てた。裏の名前が書かれた部分、そこだけを力任せに引きちぎり、地蔵に押し下げるようかぶせて、再び走り出した。手に染みついたネギの匂いは、洗っても、洗っても、とれなかった。

 瓶泥棒と野菜泥棒をして、二週間ほど食いつないだとき、上司がやってきた。そのとき、初めて無断欠勤をしていたことに思い至った。
今考えると不思議なことだが、日常はしれっと舞い戻った。幾度も頭を下げた。それからずっと働き続けた。学生でいたかった自分は、あの夜に置き去りにされたようだった。(続)

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