感謝と明け渡し。
上記画像の「ありがとうございます」という文字が印刷されたシールは僕の洋服タンスの扉に貼ってあり、毎日、そこを開ける度に、「ありがとう」という言葉を目にすることになります。
これは僕ではなく、母がかなり昔に貼りつけたものです。
最初ははっきり言って「ダサイ・・・・・」と思ったのですが、剥がさないで取っておいたところを見ると、満更でもないかな、と思っていたのかもしれません。
ところで、話はかなり跳躍するのですが、僕は自分が母親の胎内に宿る前に、自分で自分の母親を選んで生まれてきたのではないか、と漠然と考えています。
ここで言う自分と言うのは、エゴである Naokiではなくて、魂のことです。
おそらく大体のエゴがそうだと思うのですが、お金がたくさんある、とか、美男美女の親の元に生まれてきたい、と思うことと思います。
でもハイヤーセルフはそういう三次元的な幸福のことを考えないようです。
魂の目的に沿って生まれる国、土地、家、両親を選ぶのだと思います。
僕の今世の目的は精神世界の学びを深める、ということではないか、と思っています。
僕はものごころついた時からずっと精神世界のことが大好きでたくさんそう言った本を読んできました。
それは母の影響が大きな割合を占めていました。
母からは、感謝をして生きなさい、とか人目のつかないところで徳を積むことの大切さなど教えられてきました。
この母親でなかったら僕はおそらく精神のことなんてこれっぽちも気にかけることなく、物質的なことだけを追いかけて生きていたかもしれません。
母と僕は性格も身体のつくりも真逆でした。ですが、それが良かったのかもしれません。
僕は身体が病弱でしたが、母は丈夫でした。
僕は人見知りでしたが、母は社交的でした。
そのせいで理解されないことも多々ありましたが、それがバランスを取ると言う意味において良かったのだと思います。
幼い頃に喘息の発作を発症した僕を夜間の救急に連れて行ったあと、母は十分に眠ることもせず、翌朝、元気に働きに行っていました。
母が寝込んでいる姿をほとんど見たことがありません。片手で数えるほどです。
あるいは、小学校へ行きたくなくて、ぐずっていた時、母に手を引かれて校門まで行った時がありました。そこに僕と仲良くしてくれていた児童のS君がちょうど同じタイミングで登校していて、
母は彼に「Naokiと仲良くしてやってね」と言いました。その後、S君とは卒業まで仲良く過ごしました。
社交性があり、明るい母は自閉気味の僕と世間の橋渡し的な役割を担ってくれていたように感じます。
現在、母は週末になるといつもゴミ拾いをしています。僕ははじめ、徳を積むためにやっているのかな、と思いましたが、
「身体が元気に動くことへの感謝」として見返りを期待せず、そうした奉仕活動をしているそうです。
僕は最近、「感謝」について考えます。
「ありがたいな」と深く感謝している時、自我が抜け落ちて、至福に包まれる感覚があります。何も望まず、今ここ、にいることができます。
僕は今までnoteで呼吸法とか瞑想のことを書きましたが、もしかしたら、ほんとうに大事なのは、感謝することだけなのかもしれない、と思うことがあります。
心というのは、ずっと将来のことを心配をしています。あるいは、何かを手に入れたい、けれど、手に入らないと苦しんでいます。
そして、それらの心の動きをコントロールしようとすることが、呼吸法や瞑想の目的です。
ですが、それらが苦手で、合わないと言う人は祈ることによって、人生をまるごと明け渡す、と言う方法もあります。
つらい時、「最善のところに導いてください」とハートに祈ること。
ハートのなかに本当の自分がいます。その自分は神さまそのものです。
神さまと言うのは、宇宙が始まる以前からずっとそこに在る永遠の存在、永遠の意識です。
永遠の意識と言うのは、静寂のことです。ずっとわたしたちの周りに在る、優しさのことです。
手を合わせたり、手を組んだりして、ハートに祈ります。
そして、静寂を聴き、静寂のなかに身を浸します。
苦しみを生み続ける自我=心を静寂の中に溶けさらせます。
ハートは必要なものは何でも与えてくれます。
でもそれは自我が欲しいものではありません。だから、何かを願って与えられなくてもがっかりしてはいけないのです。
それは魂のレベルでは必要のなかったものです。
ですから、安心して全てを明け渡しましょう。
また、ずっと必要なものは与えられてきましたし、これからも与えられます。
必ずです。
僕はそれを深く実感しています。生まれた時から必要なものはいつも与えられてきました。
自我意識が強いせいでそれに気づけない時があると言うだけです。
そして、与えられるものに感謝していれば、人生はもっとスムーズに進んで行くことでしょう。
いずれ、人は人生を完全に明け渡し(サレンダー)てゆくことになるのだと思います。
そして、明け渡しが行われてはじめて、本当の平穏が訪れます。
あらゆる苦しみは自我の思い通りにならない時、起きます。
「わたしの思い」さえなければ全ては完璧なのです。
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