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孤独になりたいひとなんていない

僕は今、読者の方とzoomでお話をする活動をしている。今日は女性のKさんとお話をした。

Kさんは去年、背中に大けがを負い、仕事を休職せざるを得なくなった。

今も完全に回復しておらず、大好きだった山登りも満足にできず、どうしてこんな不幸が私の身に起こったのだろうか?と鬱屈とした日々を送っていた。

転機が訪れたのは、療養中だった。

たまたま呼吸法や瞑想のことをYoutubeで知り、その発信者の主催しているサークルに入った。

そのサークルで習った塗り絵をするワークをし、怪我のリハビリに出かけ、素敵な陶器のお店に行ったときのことだった。

Kさんはいわゆる一瞥体験をする。

リハビリに出かけ、陶器の素敵なお店に行くと室内が美しくひとつひとつの作品に感動を感じていた。

その時私だけじゃなく体の沢山の細胞たちと一緒に感動した感覚があった。

小さい子供のように、一緒に喜びを共有していたのだ。

そして急に気づいてしまった。

ふとこんな素敵な1日もある細胞にとっては最後の1日になるかもしれない。

1日、数時間しか生きれない細胞もあったかもしれない。

そんなことをわかりつつも私のために一緒に喜んでくれて人生を終えていく命たち。

さっきまで共に楽しんでいた細胞はいないとわかってしまった。

「行かないで行かないで」と思わず涙した。

私のために全力で生をまっとうしてくれた命、私のためにひたむきな愛がある。

そう感じ、気づいてひたすら号泣した。

なんで気がつかなかったんだろう。

辛い日も苦しい日も自分のことばかりで、

ただ私を生かすために無償の愛でひたむきに生きてくれた命がある。

毎分毎秒同じ生命はひとつとしてない。

瞬間が同じものはひとつとしてない。

ただありがとうありがとう。

ごめんなさい。

ゆるしてくださいと。

無限の愛の前にひたすら涙した。

感謝しかなかった。

私はもうすでに愛されていた。

愛しかなかった。

ただ存在しているだけ、愛されていたことに気づいた。

夕方のウォーキングでは細胞ひとつひとつが動くたびに喜んでいた。

歩けることへの感謝。

ただ今日という日を過ごせることへの感謝。

手が動いたり、見えることへの感謝。

ただ感謝が溢れてきてしかも沢山の命と動いてる気がして幼稚園の引率みたいににぎやかな気分になった。

これも毎分毎秒で終わり明日には感じることができない命がある。

明日には初めましてと生まれる命がある。

細胞たちは今日で終わりなのに、

笑っていっしょに全て味わってくれて、なんてことないさとさっとさよならする。

いままで気づかなかった細胞ごめんね。

感謝とどいたかな。

そう感じてウォーキング中もひたすら泣いていた。

Kさんの日記より。

Kさんは僕が以前、noteに

「苦しまなければ悟ることはできない」

と書いた理由を知りたい、と言った。

僕は今、三十歳だけれど、二十代の前半から何をやっても上手くいかなくなり、病気や挫折を何度も経験した。青春のいちばん煌めく時期をほとんど苦悩の川を渡るように生きた。

そしてある日、全てを手放さざるをえなくなった。でも、手放した瞬間、逆説的に全てが自分の目の前に在ったんだ、と気づいた。

そう、Kさんが陶器の店で生かされていることの神秘に涙があふれたのと同じように……。

誤解を覚悟の上であえて何度も書く。

苦しみは宇宙の愛なのだ、と。

大きな気づきを得るためには、苦しみをどうしても通り抜けなければいけないのだ、と。

大きな気づきとは、自分が何でもコントロールして我が物顔で生きることから、自分は大いなる何か、サムシング・グレートに生かされていると知ることだ。自分が大いなる宇宙の一部だと知ることだ。

だから僕は誰かから、大きな問題が起きて、それまでの人生が強制的にストップしてしまったと聞かされる時、心のなかでそのひとを小さく祝福する。

Kさんはすでにハートがひらいていた。おそらく陶器屋さんで無条件の愛を体験した時に、ハートがひらいたのだ。

「ハートに意識がある時、安心するし、幸せを感じるんです」とKさんは言う。

正直に言って、人生において、これほどの達成があるだろうか?

お金も他人も必要とせず、ただハートに意識があるだけで何もなくても幸せを感じられるのだ。

確かにKさんは仕事や趣味やその他多くのものを失ったかもしれない。しかし、それらとは比べ物にならない大きな気づきを得たのだ。

それでも、僕たちは人間だ。人間としての生活はつづいてゆく。

Kさんはこれからどうしていきたいのか悩んでいるようだった。

「今の仕事が好きなわけではないし、これと言って特にやりたいこともなくて……」

僕は言った。「Kさんは外側の条件付けを必要としない幸福を知っているのだから、好きなことをやれば良いんです」

すると、Kさんはバードウォッチングをしていると言った。

「森のなかにいると、自分の意識がどんどん広がっていって、とても癒されるの……」

よく見ると、zoomの画面の隅のほうを歩く一匹の猫が目に入った。

その瞬間、僕の脳裏に猫の背中を撫でるKさんと森の中で空を見上げて、ひとり深呼吸している姿が映った。

実は90分の対話中、僕はしつこく、冒頭で紹介したKさんに起こった大きな気づきを、noteかどこかに発表するように勧めた。それを読んで救われるひとがどこかに必ずいると思ったからだ。でもKさんはためらっていた。

いま、僕は勇気を出して、記事を書き、ひとと話している。

その理由は「人とつながりたい」という思いがあるからだと思う。

ひとと話をしている時、元気になるし、生きている、という感覚がある。

Kさんは苦しかった幼少期のことを話してくれた。家庭環境が悪かったせいで、学生の頃からほとんど誰の事も信用してこなかったのだ、と。

この宇宙には良いも悪いもない。非二元の視点から見たら、ひとりで居ようが居まいがどちらでも良いのだ。

それでも、人生の本質は人と出会うことにあると僕は思っている。生まれた意味と言って良いのかもしれない。

Kさんは実際、瞑想サークルで知り合ったひとの話をしたり、バードウォッチングの師匠さんの話をしている時、顔が輝いていた。

僕は僭越ながら、Kさんに「好きなことを人と関わりながらやってみたらどうだろうか?」と言った。

「わたしは無条件に愛されている」という自愛の感覚さえあれば、ひととも関わっていけるし、Kさんはそれを知っている。

確かにひとに裏切られたり、傷つけられたりするのは怖い。でも、無条件の愛を知っているひとは他人に期待したりしない。だからこそ人間と関わることができる。

もし傷ついたら、ハートに手を当てて、「大丈夫だよ」と言って、やさしく呼吸する。そうして自分を癒す。僕はいつもそうしている。

「またお話しましょう」と言うと、Kさんはとても嬉しそうに笑っていた。同じ画面に映る僕の何倍もきれいに笑っていた。

ひとは、本当は誰かとつながりたいのだ。ひとりが好きなひとだって、孤独が好きだとは限らない。いや、孤独になりたいひとなんて誰一人としていないのだ。

きっと。

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お話が終わって退出する際、Kさんに「あなたはこれから忙しくなると思う」と言って頂いた。

僕はあらゆる女性は巫女だと思っている。今まで生きてきて、生きる糧になる言葉をくれるのはいつも女性だった。

その予言を信じ、僕はこの活動をつづけてゆこうと思った。毎日、緊張しながら生きている。zoomの予定がある前日の夜はよく眠れない。それでも今、僕はやりがいを感じている。

naokifloweroftheheart@gmail.com


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