ハートの中に溶け去ってごらん。
「あなたの記事を読んでハートがあたたかくなりました。神の恩寵のように感じます」という女性のA様と瞑想、及び対話をした。
対話を始めて早々、A様は「ここのところ、体調不良がつづき、それに加えて、愛犬も調子が悪かったんです。でも、あなたの文章を読んでいたら、最近、愛犬ともども回復しました」とおっしゃった。
ハートの恩寵と言うのは、この世の因果関係の次元と関係がない。
ハートに深く祈り、瞑想することによって、心理的な変容が起こったり、ヒーリングが起こることがある。
でも、こうした恩寵がふりそそぐ条件として、我欲(エゴ)がないことが前提になる。
ほんとうに無私の心で「わたしをあなたのなかに溶けさらせてください。あなたと一つにさせてください」という思いで──かぎりなく自分を小さくしたとき、神からの無条件の愛と恩寵がふりそそぐ。
ちなみに「神」という言葉を僕はよく使うので誤解されると思うけれど、僕が「神」という時、それはハートのとても深い部分にひそんでいる無条件の愛と光のことを言う。それは特定の宗教や多くのひとがイメージする「神」ではない。
自我(エゴ)がかぎりなく小さくなり、ハートのなかの無条件の愛と光の感覚と一つになる、ということ。
そのとき、自分が愛そのものであり──光そのものになる。
つまり──同時に「わたしは神であり、宇宙全体である」と言うことができる。
A様に「目を瞑って、ハートに手を当て、静かにしていてください」と言い、いっしょにハートの瞑想をした。
そして、僕はハートをオープンにし、海底に沈みこんでゆくように完全な静寂のなかに入り込んだ。
数分後、目を開けたA様は「涙が溢れそうになりました」とおっしゃった。
瞑想は祈りに似ている。
ハートの深いところに祈り、自分自身を癒す時、つながっているひとも同時に癒される。
ひとの霊(スピリット)はより高次の次元においてつながっている。肉眼では確認できない次元においては、僕とA様だけではなく、あらゆるひとびとの霊がつながっているのだ。
だからこそ、場所が離れていても、癒しが起こる。僕はA様の住んでいる地域も──言うまでもなく、住所さえも知らない。
でも、それは起こる。
なぜなら、それを起こしているのは、僕ではないから。
それは「神」であり、「神聖な何か」だ。僕はただの仲介役にすぎなさい。
さらにA様は「ハートから白い光が出てくるのが視えました」とおっしゃっていた。
A様の言われる通り、ハートの深奥には光がある。
それは太陽の光に似ている。
四年前、悟り体験をした時、ハートの中に太陽があることを知った。
静かで、優しく、あたたかく、柔らかい光。それでいて、鮮明な光だ。
西洋美術に詳しい人は見たことがあるかもしれない。
キリストの胸の間から光が放たれているのを。
キリストが「神」という言葉を使う時、彼はハートの中の最も深いところにある光のことを指し示していたのだ。
ひとびとの魂はその内側の根源的な光に帰ることを──家に帰ることを希求している。
この三次元の世界で様々な体験をやり終えた後、全ての魂はこの光に帰る。
どうか、多くの人にその内側の光を見出してほしい。
あなたのほんとうのねがいは──魂の最後のねがいは──その光に帰ること。
母親のようなその根源的な光は子供であるあなたの魂に「早く帰っておいで」と首を長くして待っている。
「チベット死者の書」では「人間の魂は死後に光に帰る」と言われている。でも、その光に帰れない魂は、生前の執着や癒されていない感情などを投影した世界に取り込まれて、また転生してしまうとされている。
つまり、エゴが強い人間はなかなか「光」に帰れないのだ。
ところで、僕が「ハート」と言う時、それは心臓のことを指しているのではない。
それはこの三次元には存在していない。
より高い次元──より深い次元に存在しているスピリチュアルなハートのことだ。
その光はハートの最も深いところにある。
それは僕に森の中の小さな湖畔を思い起こさせる。誰にも知られず、ひっそりとハートの最も深いところに位置している静かな湖だ。
その次元は──その空間は、ただ一つの物音さえ、許されないような完全な静寂だ。
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話は変わるけれど、前回の記事に「外側のことに気をとられると、エネルギーが漏れる」ということを書いたせいで、誤解が生じている。
A様もその文章を読んで、「桜が咲いたら、それを観にいこうと思っていたのですが、それもいけないのでしょうか?」と訊かれた。
僕は訂正した。
外側に気をとられる、というのは、たとえばテレビやネットのニュース記事を眺め、それに没入して、善い悪いの判断をしたりすること。
もし、そういったものを眺めたとしても、影響を受けずにただ観ていられるのであれば、大丈夫。
もし、僕が桜を観るのであれば、桜を観た瞬間の感覚に溶け去るだろうと思う。「ああ、美しい」と感じるハートの柔らかさや優しさのなかに自分というエゴを失うだろうと思う。
そのように外側のものを見聞きする時、あらゆることが瞑想になる。だから、外側のことを全部無視する、ということではない。
目覚めた人間にとっては、内側も外側もない。ただ、「世界はあるがまま在る」ということが分かる。
それをブッダは「無」とか「空」と言い、キリストは「愛」と言った。僕はどちらかと言うと後者の表現をする。
そこに二元性はない。
もし、誰かが頭を働かせて、「この木の樹齢は何歳だろう?」とか、「他と比べて、色合いが~~」などと言い出す時には、そのひとのハートは閉じてしまう。
分析や批評、研究というのは、すべて「頭でっかち」のひとがすること。
ハートの人間には分析はない。
ただ、「美しい」という感嘆だけがある。
そのようにただ「感じる」ひとになってごらん。
きっかけはまるで冬の夜空の星々のようにあちらこちらに散らばっている。
A様は愛犬を眺める時、「ハートがあたたかくなって愛おしさでいっぱいになります」とおっしゃった。
僕は「素晴らしいことです」と答えた。
そして、「もしできるのなら、愛犬のイメージを頭から取り去ってください。そして、愛の感覚だけを感じてください。特定の対象を持たないで、愛だけを持つことができれば、A様のハートは常にひらいた状態になります。ありふれた椅子や何の変哲もないコーヒーカップに愛を感じることでしょう。そして、A様のハートの愛は自分の内側を越えて、全体にひろがっていきます」
A様はその意味を理解されていた。
A様のハートはもうすでにひらいている。
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