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大いなる目的に人生を捧げる。

おかげ様で、noteを始めてから一年経った。

最初は何の目的もなく自分の体験を書き続けていた。そうしたら、コメントや質問を頂くようになった。それらに返答して、交流を楽しんでいたら、やがて、zoomで対話してください、と言われるようになり、瞑想会をひらいたらどうか?と言われ始めた。

僕はそれらの頼まれごとに戸惑いながらも、イエス、イエス、と言った。

すると、一か月ほど前から、ちょっとした仕事になってきた。

もちろん、一般企業で働いている方々や他の個人事業をされている方々のようなちゃんとした収入があるわけではない。

でも、数年前まで、病気で寝ているだけだったのだから、大きな進歩だと自分を褒めなければいけない。

これからどうなるのか分からないけれど、今の僕が根拠もなく考えていることは、こんなことだ。

「見返りを期待せず、与えていれば、きっと大丈夫」

何だか中二病のようなフレーズだけれど、たぶん、真理だ、と思う

宇宙というか神というか大いなる何は、自分に与えられたものを誠実さを持って活かす人間を見捨てることはないのだ。

「これをやりなさい」という内側の声に耳を傾けて行動するということ。

人生をより高きもの━━美しいものに開け渡すということ。

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あまりお金のことを話すべきではないのだろうけれど、この前、対話をしてくれた女性が

「他の人たちがあなたの活動で救われてほしいから、応援の気持ち。」

とお布施を振り込んでくれた。

ご存じの通り、僕の活動は基本無料で、こちらから料金は請求しないかたちをとっている。

正直に言って、僕には物欲がない。服は貰い物、今の髪型は坊主だ。でも、もちろん嬉しかった。

それと同時にこれからちゃんとしなくちゃ、という覚悟が芽生えた。

宇宙というか神というか大いなる何かが、「このお金を原動力にして、しっかり活動をしなさい」と言っている気がした。

そして、お金がないからと言って、セッションを申し込んでくれる方々を拒否してはいけない、と僕はいつも考えている。

もし、お金を目的にしてこの活動をしたら、僕は失敗するだろう、という確信がある。

なぜなら、僕が人々のことを助けるのではなくて、僕を通じて現れる恩寵がそれを果たすからだ。

逆に言えば、お金を目的にせず、ただ道具として大いなる何かに使ってもらう限り、僕はお金に困ることはないだろう、とも思う。

自分を見つけてくれて、話をしたい、何かをこのひとから得たい、と思ってくれることは、ほとんど奇跡的な確率であって、宇宙的な、大いなる目的があるのだろう、と信じている。

経済的な事情や諸々の事情で、普段、誰とも話すことがない、という読者の方々が

「あなたに会えて、話すことができて良かった」

と言ってくれることがあった。僕の存在に感謝してくれる方々がいた。

そういう時、僕は「お金以上の何か」をその度に受け取っているのだ。

そうした感謝の言葉をもらうたびに自分が浄化され、癒されているという感覚を実際的な身体感覚として感じた。

お金を目的にしたら、神から見放される。

ということ。

そして、目的や報酬を期待しなければ、豊かさがやってくるという法則を最近の僕はひしひしと感じる。

フォロワーを増やすとか売上をあげるために活動するのではなく、自分のところに来て話を聞きたい、と言ってくれるひととちゃんと向き合う、ということ。

ひとを助けたいと思っているひとは承認欲求がある、とか自分を認められない証拠だ、と言われることがある。

確かにそれはそうかもしれないが、今の僕は、そんな心理学的な分析をして、行動の制限を自らに課すほどの実績もなにもないんだから、とりあえず、頼まれたらイエス!ということをやっていきたいと思う。

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そういうわけで、明後日24日(土)の14時から瞑想会(もちろん無料!)を開催します。簡単な瞑想をした後、質問を受けたり、雑談をしようと思います。

zoomで1時間以内に終わります。

希望される方はこちらまで↓ naokifloweroftheheart@gmail.com

また、ご質問やご意見(こんなことをやってほしい、書いてほしい)などがございましたら、コメント欄や上記のアドレスまでお願いします。

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