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森鷗外と日清戦争・台湾征服戦争・日露戦争②【高校日本史を学び直しながら文学を読む10】

 前回は日清戦争・台湾征服戦争について扱いましたので、今回は森鷗外と日露戦争です。日露戦争に関する僕の高校日本史の授業の一部を紹介しつつ、森鷗外がどう反応したかを読んでいきます。

 1880年代にアフリカ分割を終えていた欧米列強は、日清戦争によって再びアジアに注目するようになります。下関条約が結ばれ,清が遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に割譲することが決定しましたが,ロシアはフランス・ドイツに呼びかけて,日本に対して遼東半島の清への返還を勧告しました(三国干渉)。日本が遼東半島を領有すれば,朝鮮半島は日本の領土に挟まれることになり,日本の戦争目的だった「朝鮮の独立」が有名無実化してしまう、などの理由をつけてきました。イギリスは干渉には参加しませんでしたが、日本への援助はできないと伝えてきました。日本政府は遼東半島返還を決定します。多くの国民はこれを屈辱と感じ、政府はこの国民感情を背景に、大規模な軍備拡張をすすめることができました。日清戦争の賠償金の使いみちの大半は軍事関連費用であり、軍備拡張費と臨時軍事費をあわせた数字は8割をこえていました。
 三国干渉後、国王の妃である閔妃とその一族の勢力が復活していました。閔氏は親露政策をとり、日本とは距離を置こうとします。日本は清の朝鮮への影響力を排除し、朝鮮への優越権を確保するために日清戦争を戦ったにもかかわらず、清という壁がなくなったことで今度は朝鮮にロシア勢力が入ってきたのです。閔氏の親露政策に憤っていた朝鮮特派公使の三浦梧楼は、閔妃殺害を計画し、実行に移しました。その後、アメリカの新聞「ニューヨーク・ヘラルド」がこの閔妃殺害事件を大きく掲載します。外国の王妃を殺害するという大事件をおこした日本への国際的非難が高まる中、日本政府は三浦らを召喚し裁判に付します。しかし、証拠不十分を理由に、全員を無罪・免訴としてしまいました。
 妃を殺害された国王の高宗は、国内のロシア公使館に政治亡命しました。朝鮮では反日・排日の風潮が高まり、日本は朝鮮への優越権確保どころか、影響力を失っていきました。朝鮮では、清の皇帝に冊封されたことを示す国王号を使用し続けるのは望ましくないとして、1897年に高宗が皇帝と称するとともに、国名を朝鮮から「大韓帝国」と改称しました。

 かつて華夷秩序の頂点に君臨していた中国ですが、日清戦争で格下の日本に敗れ、それがもとで列強が進出してきます。戦争で負けたばかりの清には下関条約で定められた多額の賠償金を自前で支払う力はなく、ロシア・フランス・ドイツ・イギリスからの借款によって支払いました。これをきっかけにして、列強が清を分割対象としていくのです。「租借」(一定期間の統治)という言葉が使用されますが、列強は各地を半植民地として清の分割をすすめていったと考えてよいでしょう。港湾と都市を租借して「点」を築き、鉄道敷設権を獲得して点を「線」でつなぎ、鉄道周辺の鉱山採掘権などを獲得して線を「面」に拡大していく、というプロセスをとりました。
 アメリカは他の列強と比べて明らかに中国分割に出遅れていました。そこで国務長官のジョン=ヘイが「門戸開放」宣言を出します。これは、列強の中国分割に対して道義的な反対をしたわけではありません。欧州が中国で勢力圏を強固に確保している状態に反対し、中国市場を開放してアメリカも利益を獲得できるようにしてもらいたいということです。アメリカは、1898年にハワイを併合し、スペインとの戦争(米西戦争)に勝ってスペイン領であったフィリピンを植民地にするなど、アジア・太平洋地域に進出してきていました。
 列強の侵略に対し、中国では「扶清滅洋」(清をたすけ、西洋を滅する)を唱える義和団が民衆の間に広がりました。義和団の教義には神仙思想や仏教的なものが混在し、義和拳という拳法を修練すれば不死身の身体になると説くという特徴がありました。1900年に義和団が北京を包囲すると、最高権力者であった西太后は義和団の力を利用して権勢を維持することを考えたことにより、清政府が八か国に宣戦布告しました(義和団戦争)。日本をはじめ列国は連合軍を組織(およそ半数は日本軍)して出兵し、清の正規軍や義和団と戦いました(北清事変)。日本の派遣部隊は近代兵備により義和団を圧倒し、「極東の憲兵」と称されるようになります。西太后は、戦局が不利であることが明白になると北京を脱出し、一転して義和団討伐を命じました。その後、北京は連合軍に占領され、自称「文明国」による野蛮な略奪が横行しました。1901年、日本や列国は清政府と北京議定書を結び、賠償金や軍隊の北京駐兵権などを得ました。清は、日清戦争の賠償金が残っている状況で国家予算の11倍近い賠償金が課され、常に外国の軍隊がにらみをきかせた状況を続けることになるのです。

 義和団戦争に際し、ロシアは満洲に進出し、全満洲を占領していました。戦争終結後もロシアが撤退しなかったため、日本政府はロシアの勢力が満洲から大韓帝国(韓国)まで及ぶことを恐れました。日本政府内では、ロシアとの外交交渉によりお互いの妥協点を探ろうとする考えがありました(日露協商論)。ここで、政府内で日露協商論と日英同盟論が対立したかのように説明されることがありますが、厳密にはこの説明は正しくありません。イギリスと提携し、ロシアとも強調する、つまり両者を成立させた方が韓国を確保しやすいと考えていたのです。しかし、日英同盟が進捗する一方で、ロシアとの交渉はうまくいきませんでした。
 アジアで多くの利権を確保しているイギリスからみれば、これ以上ロシアがアジアで拡大しないように牽制する必要がありました。しかし、イギリスはアフリカでボーア戦争を継続しており、極東地域に集中できない状況でした。日本と同盟を結べば、イギリスの極東戦略の中に日本の軍隊を組み込むことができます。場合によっては、ロシアに日本をぶつけて、ロシアを消耗させることで極東のバランスをとるという手段もあり得ました。こうした世界情勢を背景として、1902年に日英同盟が結ばれました。同盟といっても、日英いずれかが他国(ロシアを想定)と交戦したときは中立を守る、という内容でした。もし、フランスがロシアの側に立って参戦してくるような場合は、イギリスが日本に加勢しますが、そのようなケースにならなければ、日露戦争ではイギリスが軍を動かさないことが約束されていたのです。

 ロシアが満洲から撤退する望みが薄れてくると、日本では開戦論が高まっていきました。また、アメリカも日英同盟に歩調をあわせるかのようにロシアを非難するようになります。1904年2月、日本政府は交渉決裂をロシアに通告し、仁川と旅順のロシア艦隊を攻撃しました。
 韓国の確保が日露戦争の目的であったことから、開戦そのものも韓国の仁川で始まったのです。日本軍は仁川に上陸し、さらに韓国の首都漢城を制圧しました。
 6月には満洲軍総司令部が戦場に到着しました。総司令官は大山巌、参謀総長は児玉源太郎です。乃木希典を司令官とする第三軍には、すみやかに旅順を攻略するようにとの指示が出ていました。ロシアは旅順にコンクリートの壁を使った要塞を築いていましたが、日本軍は要塞攻略の知識に乏しく、犠牲を覚悟の上でひたすら突撃するという戦法でした。度重なる突撃の末、日本軍は旅順を占領しますが、七割にものぼる損害を出しています。しかし、この戦略というよりは精神論にもとづくような突撃を指示した乃木希典が、のちに「軍神」として崇められるようになるのです。
 司馬遼太郎の歴史小説『坂の上の雲』では乃木希典を有能な人物としては描いていませんが、秋山真之を天才として描きました。この小説は1968年から72年にかけて『産経新聞』に連載されたものですが、2009年にNHKがスペシャルドラマとして放送したこともあり、21世紀になっても日本人の日露戦争観に影響を与え続けています。司馬遼太郎はかなり文献調査をしてから小説を書く人ではありますが、彼が依拠したのは大正時代に谷寿夫が書いた『機密日露戦史』という、かなり内容に偏りや不備があるものでした。秋山真之は、旅順港閉塞戦でアメリカが米西戦争で失敗した作戦を模倣し、やはり日本軍も失敗しています。海軍が封鎖を断念したことで、旅順の要塞に陸軍が突撃を繰り返すことになりました。また、日露戦争の転換点となった蔚山(ウルサン)沖海戦では、日本の海軍がそれまでの戦法にこだわらず、複数の艦で特定の敵艦に砲撃するという作戦が成功につながっており、その現場には秋山真之はいませんでした。
 海軍は戦後の総括では「T字戦法」と呼ばれた戦術が成功したことにしますが、実際は「T字戦法」は使われず、結果的に似たような態勢で終わっただけでした。それなのに、作戦・戦術の勝利のように伝えられてしまうのです。

 とてつもない能力をもった英雄の導きによる日本の勝利、高度な戦術による日本の勝利、陸軍の精神性による日本の勝利など、日露戦争にまつわる様々な物語がこれまでつくられてきました。しかし、最も注目しなければならないのは「日英同盟」の効果であると僕は思います。日本は総兵力でロシアに劣るだけでなく、主力艦を自前でつくれないという問題をかかえていたので、イギリスの協力が不可欠でした。また、戦費約18億円を日本国内でまかなうことはできず、7億円以上は外債(主にイギリスとアメリカ)によって確保していました。さらに、イギリスが1902年に世界の植民地と主要国との間を海底ケーブルで結んでいたことに注目すべきです。当時はモールス信号でしたが、ロンドンから世界へ向けて情報を瞬時に流すことが可能になっていました。そのため、イギリスは日本にとって有利になる情報を流し、場合によってはロシアを攪乱させる情報を流すこともできました。この重要な事実は司馬遼太郎の小説では全く描かれていません。日本軍が阿吽の呼吸でつながっていたかのように話がすすんでいくのです。

 ロシア軍は後退を重ねながらも増援部隊を得て、どんどん大きくなっていきました。戦争が長期化すれば、総兵力で勝るロシアが有利になります。しかし、ロシアは戦争中に国内暴動が発生していました。1905年1月、首都サンプトペテルブルグで生活苦などを要因とする請願運動が起きましたが、それを鎮圧しようと軍隊が市民を銃撃しました。「血の日曜日事件」です。
 日本は戦争が長期化すればロシアより不利になるため、好機をみつけて講和へ持ち込むことは必須でした。また、イギリスから見ると、ロシアが満洲を占領するのは困りますが、そのかわりに日本が満洲を占領してアジアで拡大していくことも困るので、ロシアと日本が互いに疲弊した状態で講和へと流れるのが理想です。「門戸開放」を唱えて、満洲などの利権を得ることを狙っていたアメリカも、イギリスと同じような思惑がありました。
 満洲軍総司令官の大山巌は兵站(補給システム)が限界であることを電報で伝えていました。日本は戦争の継続が厳しい状況だったのです。1905年5月、日本海海戦での大勝を機に、日本はアメリカに調停を依頼しました。ロシアも敗戦に国内の革命が加わったことで戦争継続は困難であり、調停を受け入れました。講和会議はアメリカのポーツマスで開かれることになります。日露戦争というのは、戦場は韓国と満洲であり、現地の民間人に犠牲者まで出し、講和はアメリカで行いました。日本の本土とロシア領は戦場にならず、講和の場所としても選ばれなかったのです。だからこそ、この戦争を理解するためには日本とロシアだけを見るのではなく、世界の中での位置づけを重視する必要があります。
 小村寿太郎とウィッテを全権として調印されたポーツマス条約の内容は、ロシアは日本に対し、①韓国における政治・軍事および経済上の優越権を認める、②旅順・大連の租借権、鉄道(東清鉄道南満洲支線)の長春以南の権利およびその付属利権をゆずる、③北緯50度以南の樺太の領有権をゆずる、④沿海州・カムチャツカ半島沿岸の漁業権をゆずるというものでした。
 ①により、韓国の確保という目的は達成されましたが、日本は賠償金の要求をロシアに放棄されました。戦費の多くを英米からの外債でまかない、国民に多大な負担を強いたにもかかわらず、賠償金がとれなかったことで国民は不満をもち、日比谷公園でひらかれた講和反対の大会は暴動に発展しました(日比谷焼打ち事件)。

 日清戦争で『徂征日記』を書き残した森鷗外は、日露戦争でも陸軍軍医として従軍し、通常の日記ではないものの多くの詩歌を収めた『うた日記』を残しました。
 森鷗外の『うた日記』の中に、「罌粟(けし)、人糞(ひとくそ)」という詩があります。明治三十七(1904)年七月十三日に詠んだと記されています。

  わが住む   室せばく
  顔ばな    照れるかくさん
  すべなく   うたて見られぬ

  紐は黄    袴朱
  仇見る    てだてに慣れて
  をみなご   たやすく見出でつ

  ますらを   涙なく
  辭めど    きかんとはせで
  あす來と   契りてゆきぬ

  耻見て    生きんより
  散際     いさぎよかれと
  花罌粟    さはに食べつ

  たらちね   かくと知り
  吐かすと   のませたまひし
  人屎     驗なかりき

  おもなく   羞ぢ伏すを
  舌人     開きて告ぐれば
  吐くべき   薬とらせつ

  間近き    たたかひの
  場行く    死の使の
  打見て    過ぎし花罌粟

 逃げ遅れた村娘が、兵士に見つけられ性的暴行を受けます。娘は罌粟の花を食べて自殺を図りましたが、死に切れません。母親は罌粟を吐かせるために人糞を食べさせますが、吐けません。そこで軍医に知らせが入り、催吐薬を飲ませる、という内容です。
 性的暴行を働いたのが誰なのかは書かれていません。しかし、当時の日本軍騎兵の軍服が朱色の袴であったことを考えれば、これは鷗外が残したヒントである可能性もあります。

 「罌粟、人糞」から8年後の1912年、鷗外は短編小説『鼠坂』を書いています。この小説は、日露戦争で成金になった深淵という男の家での酒宴から始まります。そこで、小川という新聞記者が、大陸でまだ20歳にならないような女性に性的暴行を働いた話になります。小川はその場にいるのですが、聞き書きというかたちで深淵が語り続けます。深夜になって、小川が寝室で寝そべっていると、長い髪の女性があらわれます。それは小川が性的暴行を働いた女性でした。右の口角から血が糸のように一筋流れています。小川は声を出して、体を背後へ倒しました。その後、小川が脳溢血症で死亡したと発表されました。
 この『鼠坂』は、怪談小説と捉えられることがありますが、「罌粟、人糞」とのつながりを意識して読むと、別の読み方もできます。「罌粟、人糞」では現地の女性に性的暴行を働いたのが誰なのかをはっきりとは書いていませんが、『鼠坂』はフィクションというかたちをとりつつも、日本兵や従軍記者の中に非人道的な蛮行に関わる者がいたことに踏み込んでいます。小川がある司令官を笑い飛ばす場面もあります。

  あの驢馬を手に入れて喜んだ司令官の爺いさ
  んなんぞは、仙人だと思つたよ。己は騎兵科
  で、こんな服を着て徒歩をするのはつらかつ
  たが、これがあれば、もうてくてく歩きはし
  なくつても好いと云つて、ころころしてゐた
  司令官も、随分好人物だつたね

 これ以前に鷗外は軍の上層部への皮肉や揶揄を書いてきていません。どのような心境の変化があったのでしょうか。軍部を糾弾しようとしたのでしょうか。軍医の最高位となって忖度する必要がなくなったと考えたのでしょうか。
 しかし、この後の鷗外の小説が、国家と対峙するようなテーマを前面に出していくわけではありません。それでも僕は、この『鼠坂』は鷗外を理解する上で大切な小説ではないかと考えます。軍医としての自分と文人としての自分を厳格に区別していた鷗外ですが、この後、旺盛な文筆活動を続け、文人としての活動が増えていきます。鷗外は1922年に死去しますが、最後の遺言は有名です。

  余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス

 軍医として「国家」の上層部の地位にまで昇進した鷗外が、最期は「個人」として死のうとしたのです。
 「国家」と「個人」という大きなテーマを考える際には、夏目漱石という、鷗外とならぶ文豪を取り上げないわけにはいきません。次回は、「高校日本史を学び直しながら文学を読む11 夏目漱石と日露戦争後のアジア」というテーマを扱います。


主要参考文献

・『鷗外全集 第三巻』(岩波書店)
・『鷗外全集 第三十五巻』(岩波書店)
・森鷗外『うた日記』(岩波文庫)
・東雅夫編『文豪怪談傑作選 森鷗外集 鼠坂』(ちくま文庫)
・『子規全集 第十二巻』(講談社)
・国木田独歩『愛弟通信』(岩波文庫)
・高校教科書『日本史探究』(実教出版)

・久保田哲『帝国議会』(中公新書)
・佐々木雄一『帝国日本の外交』(東京大学出版会)
・大谷正『日清戦争』(中公新書)
・高橋秀直『日清戦争への道』(東京創元社)
・原田敬一『日清・日露戦争』(シリーズ日本近現代史③ 岩波新書)
・原朗『日清・日露戦争をどう見るか』(NHK出版新書)
・和田春樹『日露戦争(上・下)』(岩波書店)
・横手慎二『日露戦争史』(中公新書)
・小森陽一・成田龍一編著『日露戦争スタディーズ』(紀伊國屋書店)
・小林和幸編『明治史講義【テーマ篇】』(ちくま新書)
・大日方純夫『「主権国家」成立の内と外』(日本近代の歴史2 吉川弘文館)
・飯塚一幸『日清・日露戦争と帝国日本』(日本近代の歴史3 吉川弘文館)
・伊勢弘志『明日のための近代史』(芙蓉書房出版)
・山田朗『これだけは知っておきたい日露戦争の真実』(高文研)
・イ・ヨンスク『「国語」という思想』(岩波現代文庫)
・幸徳秋水『帝国主義』(岩波文庫)


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