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妄想百人一首(25)

『それ』

 
 男は落胆した。
 無理もなかった。期待に胸を膨らませながら足を踏み入れた新しい世界にも「それ」は存在した。
 行き交う「それ」を遠い目で眺めながら、何を思えば良いのか悩んでいた。つまり何も考えていなかった。あの子供じみた神への怒りに身を預ければ良いのか、この世界への無力感に浸れば良いのか。あるべきは、そのどちらでも無く今後を考えることなのだろうが、沸き立つ落胆の中では難しく、つまり何も考えていなかった。
 「明太子はいかがですか」
 男は自分へ掛けられた声と判っていたのに、焦点が合うまで時間がかかった。公園のベンチに座っている男を見下ろすように黒い短髪白いシャツのさっぱりした青年が立っていた。手にはレジ袋を提げている。
「明太子はいかがですか」
男は思わず頷いた。青年は男の右隣に座ると、膝上に乗せたレジ袋をガサゴソしてパックの明太子取り出した。
「どうぞ」
「ありがとう……ございます」
青年はさらにパックの明太子をもう一つ取り出した。
「食べましょうか」
「……はい」
青年がラップを剥がすのに男も習う。
「ごみ、これどうぞ」
レジ袋が二人の間に置かれる。
「ありがとう……ございます」
青年は明太子を素手で食べた。男もそれに習う。
 久しぶりの食事だった。男は久しぶりの食事であることも忘れて明太子を食べた。明太子はグロテスクで旨い。
 「世界で最後の明太子です」
青年は続ける。
「私たちがこれを食べ終えたら世界から明太子はなくなります」
男は青年を見る。
「食べ終えてしまった」
「それがあなたの望みでしょう?」
男は何も言えなかった。青年の視線に耐えられず目を逸らした。
 男の望みは叶った。つまり望みはまだ存在した。それは望みが叶わなかったことを意味した。男は舌打ちをした。青年の声は穏やかだった。
「あなたはわかっている」
男はわかっていた。自分の憎しみは完全ではなかった。明太子は旨かった。
「腹が減っていただけだ」
男の声に怒りが滲む。青年は優しい顔で答えた。
「大丈夫ですよ。雪がとけて下から泥まみれの落葉が現れただけのことです。掃除は大変ですが。春は勝手に来ます」
青年はレジ袋を持って立ち上がった。
「それではまたどこかで」
 しばらくして短い夕焼けがあった後、男はベンチを離れた。男の四肢は問題なく動いた。
 男は落胆できなかった。



今回の一首

難波江の葦のかりねのひとよゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき

この歌について

 藤原兼実が右大臣のときの歌合で、「旅宿に逢う恋」という題に皇嘉門院別当が詠んだとされる歌で、
「難波の入江に生えている芦を刈った根の一節ほどの短い一夜でしたが、わたしはこれからこの身をつくして、あなたに恋しなければならないのでしょうか」
という意味。
 難波潟の辺りには遊女も多かったらしく、歌枕の選択として抜群らしい。

あとがき

 おにぎりの具は昆布が好きです。

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