妄想百人一首(26)
『アリとキリギリス』
二日間、何も食べていない。
それでも歌う。
――どれほど空気を吐いたって
どれほど空気を吸ったって
こんなに喉は震えているのに
体の底から震えているのに
ギターは弾かないと鳴らない
間違っている 間違ってるから美しい
間違っている 間違ってるから歌える
そうだろ
一人立ち止まっていた男は首を傾げて去って行った。通りをゆく人々は素通りした。
冬ざれた薄い空がアルム橋に続く大通りの上に広がっている。
アルム橋から少し歩いた位置にあるパブとパブの隙間が気に入っている。今日もここで歌う。食べ物に困らない人達が橋の向こうから渡って来るまで時間がある。水を飲みに行くことにした。
ギターを背負って川へ向かう。家賃滞納で追い出されたのが一週間前とかだろうか。以来、川の水を汲んで土手の陰で野糞をしている。ギターがあれば問題ない。
気に入っている隙間に戻ると、いつも座っている場所に大便があった。臭いからして犬である。上等だ。思わず笑った。パブの店主にちり取りを借りて、犬の糞を肥溜めへぶち込んだ。
空は、橋の反対側だけ夕焼けている。人通りが増え始めた。この時間になるとボロボロの外套では寒さがしみる。
それでも歌う。
――何の役に立つのか問うたけど
それで幸せになれたっけ?
目標をたくさん立てたけど
誰かを幸せにしたっけ?
霧の海の中に宝箱があるなんて
どうして信じてしまったんだろう
行く先の分からない列車に乗って
どうして眠ってしまったんだろう
戻れなくなって
信じられなくなって
怖くなって
失わないように固く握った手のひらは傷だらけ
傷だらけの手でこれから何を握り潰すのだろう
一人の通行人が千円札が一枚だけ入ったギターケースを蹴り飛ばした。身なりからして橋の向こうの人間だろう。同調するかのように別の二人から「下手クソ」「何言ってっかわっかんねえんだよバーカ」「帰れ物乞い」「下手クソ」と罵声がとんだ。
一人だけ見覚えがあった。空腹に堪えられずアルムを渡ったやつだった。元気そうで何よりだ。皮肉ではない。
雲も星もない夜空が広がっていて、通りは明るく騒がしい。ギターケースを拾い千円は少し探して諦めた。隙間に戻ってギターを構える。唇が悴みだして発音はあやうい。
それでも歌う。
――サイコロを振って 一が出たとか出ないとか
もう辞めにしないか 辞めにして歌わないか
山に登って 山頂は晴れたとか雨だったとか
もう辞めにしないか 辞めにして歌わないか
誰かのためではなく
生まれてきたから歌うのだ
自分のためでもなく
歌えるから歌うのだ
生きるとは歌うこと
突然、目の前に五千円札が差し出された。
「命あっての物種だろ」
上から男の声が降ってきた。身なりからしてやはり橋の向こうの人間だろう。男の顔を覗き込んで言った。
「生きるための命ではない、歌うための命だ」
男は一瞬の怯えたような顔をして、
「音楽で腹が膨れるなんて羨ましいな」
と言い去った。
我ながら良いことを言った。
歌えば、自分が生きていようが死んでいようが何も変わりやしない世界を認め、讃えることができる。歌えば、生という最大の不条理が、その理不尽ゆえに美しさを生み出すことに感謝することができる。歌うための命とは、そういうことだ。
狭い夜空には星が二つほど瞬いている。月は無い。
ギターをケースに仕舞って、ケースごと抱きかかえる。空腹はとうに通り越した。寒さだけは相変わらずこたえる。体の感覚もすぐに無くなるだろう。
寝たら死ぬ、と直観が告げている。瞼が重い。
部屋で歌っていたら追い出されたこと。
路上で歌っていたら背中を蹴られたこと。
部屋で歌っていたら玄関を蹴破られて黙れと怒鳴られたこと。
路上で歌っていたらギターを盗られたこと。翌日、傷一つ付かずにギターが返ってきたこと。
バーで歌っている時に下手クソと野次られたこと。
初めて路上で弾き語りをしたときのこと。誰も見向きもしなかったこと。
初めてギターを弾いた日のこと。
初めて路上の弾き語りを目にしたときのこと。
初めて母の前で歌った日のこと。
初めて歌った日のこと。
これが走馬灯というやつだろうか。
死にたくない。
今更だな。自嘲的に笑った。
せめて歌いながら死にたい。
喉が渇いて声は出ない。
瞼が持ち上がらない。
今回の一首
わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人は言ふなり
この歌について
六歌仙の一人(なのに)、「よく分からない人」として有名な喜撰法師が詠んだ歌で、
「私の草庵は都の東南にあって、穏やかに暮らしている。しかし世間から、世を憂うために宇治山に住んでいる、と言われているようだ」
という意味。
厭世だの失恋だのという都人の噂を否定するために詠んだ歌らしい。
あとがき
命あっての物種です。
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