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”コロナ”なんかより”健康イデオロギー”の増殖のほうがよほど怖ろしいんです

第4回❐2023年3月18日記

 2020年3月13日に「新型インフルエンザ等対策特別措置法の一部を改正する法律(新型コロナ特措法」が成立して以来,「緊急事態宣言」と「まん延防止等重点措置」(通称:まん防)が,繰り返し発出されることになる。
 
 その間,「自粛要請」の名の下で,人々の行動は大きく制約され変容を余儀なくされた。わが国の場合はあくまで「要請」ということで,欧米諸国と比べ強制力を伴わない行動制限ではあったが,政府の要請内容が例によってきわめて曖昧で,説明不足も甚だしかったことも影響してか,ほとんどの国民が「自発的」に「自粛」する方向となってしまったようだ。

「自粛要請」に関して言えば,「朝日新聞 2020年4月25日 朝刊13面オピニオン欄:新型コロナ「自粛要請」の落とし穴」における,山崎望氏(駒沢大学教授)の指摘が鋭い。

 新型コロナウイルス対策では,自由民主主義体制の欧米諸国でも,外出禁止や都市封鎖など「むき出し」の権力行使が目立ちます。中国など独裁的体制の国と同一視はできませんが,どの国も法秩序が想定していない事態への対処という問題に直面しています。
 日本では,緊急事態宣言を出したものの,自粛要請にとどまっている。私権の制限という点では限定的ですが,問題がないとはいえません。
 「3密の場所には行かないで」といった要請は,一見,穏当に見えます。しかし,責任の主体が政府ではなく,個人に帰せられている。「個人が勝手に自粛し,責任を負う」図式で,政府は責任をとらない。これは,新自由主義的な自己責任論の典型です。
 感染の不安から逃れたい人々が,行政により強い権力行使を求め,自粛要請で自らの行動や自由を縛らせるという奇妙な現象が起きてしまっています。その結果,自分や他人の責任を問い合う,監視社会のようになりつつあります。みんなで社会のルールを決めるという民主主義の原理ではなく,「自分勝手なことをするな」という道徳的な感情が前に出てきてしまっている。(中略)
対策に民主主義的な正統性があるのかを,多層的かつ厳格にチェックする仕組みが必要です。

(「朝日新聞」 2020年4月25日 朝刊13面)

 「朝日新聞 2020年4月2日 朝刊11面オピニオン欄」でも,仲正昌樹氏(金沢大学法学類教授)が「新型コロナ 疫病と権力の仲」と題するインタビュー記事において,聞き手に対して以下のように答えているのだが,これからの話の展開に重要な示唆を与えてくれる内容なので,少し長くなるが一部をそのまま引いておきたい。

ーー政治権力の怖さという点で,コロナ危機を考えるヒントを与えてくれる思想家はいますか。
「やはり公衆衛生と権力の関係を論じたフランスの哲学者ミシェル・フーコーでしょう。彼が1975年に出版した『監獄の誕生』で示したのが,看守が囚人を一望監視できるあの有名な施設『パノプティコン』ですが,その導入部でペストが出てくるのも,何やら符丁が合っています」
「パノプティコンは,中心に監視所があり,周りを取り囲むように独房が設置されている監獄のイメージです。証明などを調節し,囚人からは,誰に監視されているのか,そもそも監視されているか否かもわからない。こうした管理システムは監獄に限らず,病院,学校,工場などに拡張されうる。人々を規律正しく従順なものに導くという意味で,フーコーはこれを『規律権力』と名付けました」
ーー権力にとって,そんな管理システムの利点は何でしょう。
「統治の手間,コストが抑えられます。権力側が市民を抑え込もうと武力や強制力を行使すれば,市民が抵抗してその鎮圧に手間がかかる。近代の権力は,前近代のように人々の命を粗末に扱うのでなく,なるべく生かした状態で利用するという手段をとるようになった,とフーコーは指摘します」
ーーフーコーの権力分析は,現代の私たちにも有効でしょうか。
「フーコーはノーム(規範)/ノーマル(正常・普通)という概念を示しています。安倍晋三首相によるイベント自粛や一斉休校の要請に対する人々の反応を考えるうえで,示唆的かもしれません。政治権力は通常,立法や何らかの指導でノームを作りますが,そのノームが定着すれば人々はいつの間にか『これが普通だ』と思い始める。人間は誰しも『普通』から逸脱し,異常扱いされるのは嫌です。権力から強く促されなくても,自分で自分を無意識に統制するようになります」
ーー安倍首相が打ち出したのはあくまで「要請」でした。感染者が出ていない自治体もあったのに日本の圧倒的多数が従いました。
「自分が逸脱していないかどうかを確認する手段は大抵,自分と他人を比べてみることです。オレはあいつのような『逸脱者』にはならない,などと思う。そうして自分で自分の逸脱を戒めたり,他人の逸脱をとがめたりする。そうなればさらに,権力による監視・管理の手間は省けるわけです」
ーー国民の安全・安心を第一に考えれば,一定の「監視・管理」は避けられない気もしますが。
「気を付けるべきは,対応策がエスカレートすることです。私たちは健康の話となると,政府が進める公衆衛生対策をさほど抵抗なく受け入れがちです。外交・安保といった,いかにもイデオロギーが絡みそうな政策に比べ,人々は権力に統治されやすくなる。そのことは,今回の改正新型インフルエンザ等対策特別措置法の成立にも表れたと思います」
ーー欧米各国の政府の対応はどう見ますか。民主主義との矛盾は生じないでしょうか。
「欧米の民主主義国家も切羽詰まれば,何をやり始めるか分かりません。フーコー的な健康にまつわるノーム(規範)か,かなり浸透・徹底しているからです。たとえば,イタリア政府は国内全土で人の移動を制限する強硬措置に出ましたが,現政権は中道左派を基盤にしていたはずです」
「ドイツもきわめて潔癖な国で知られます。もちろん,つい最近まで『我が闘争』が出版できないほどナチス的全体主義は徹底排除する国ですが,『いや,これは差別や民主主義に反する問題ではない。健康の話だ』となると,もはや止まらない可能性があります。欧米にコロナが飛び火する前,『中国は強権的な政治ができるから封じ込められた』と言っていた人たちは,欧米各国の強硬措置にはどう反応するのでしょうか」
ーー収束が見えないなか,今後どのようなことを懸念していますか。
「『外国人の入国は拒否して当然』という風潮にみんなが慣れてしまい,自国第一主義が高まることです。とくに危ういと感じるのは,いま多くの国の政権基盤が弱いこと。独メルケル政権も,左派と右派から『決断できない政権』と批判されている。そうした批判をかわすためにも,政権与党は何らかの強硬措置に流れやすくなるかもしれません」
「つまり,この問題を迅速に解決しようとする政治は,民主主義とは相いれないジレンマを内包しています。私たちはそのことに無自覚であってはいけません。権力に無批判に従う状況につながりかねないからです」

(「朝日新聞」2020年4月2日 朝刊11面)

 また,前回取り上げた『対論 1968』の中にも,次のような箇所がある。
 笠井潔氏の

「アガンベンのように,このコロナ状況を利用して監視・管理を強めていることには反対だ,という極めてオーソドックスな主張をしている人もいて,たしかにそれは間違っていないとしても,それだけでは消極的な抵抗にしかならないな。」(p.225)

(『対論 1968』集英社新書,2022)

という発言を受けて,コロナ禍が始まって以来,一度もマスクを付けたことがないと公言する,過激な表現活動で知れた聞き手の外山恒一氏が

 「フーコーとか援用して”生政治”(福祉や健康に配慮して国民一人一人を”生きさせる”ために,国民生活の隅々にまで浸透し,管理強化を強めるタイプの政治)がどうこう言ってた連中から,フーコー的な問題提起をする人が出てこないことを嘆いているんです」(p.225)

(前掲書)

と返しているのだが,いよいよここでミシェル・フーコーが重要な役回りとして登場してくることになるのである。

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