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フィクションに求めていたもの

岸田奈美さん主催で昨年開催された、 #キナリ読書フェス

5冊の課題図書全てを入手して臨むも、フェスに間に合ったのは、高校生から持っていた「銀河鉄道の夜」と、フェスきっかけで手に取った「世界は贈与でできている」だった。

残された3冊のうち、主催者・岸田奈美さんの「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」はフェス後すぐ読んだが、「くまの子ウーフ」と「さくら」は残ってしまった。

その「さくら」を読んだ感想を書く。

この先、当たり前のことだけど、全て私個人の主観で語る。
あと、多少ネタバレする。

全体を通して感じたのは、私自身が読み進めたいペースと物語の進むペースが合わないということだった。

思ったように物語が進まない感覚。

そのせいもあってか、読破に時間がかかって、2020年読書納めのつもりが越年してしまった。

何というか、最近知り合いになった年下の長谷川薫くんとサシで話す機会があって、そこで聞かされる身の上話のような印象。
ネガティヴな意味でフィクション感が薄く感じるというか。
重い話な上に救ってあげられない。苦しくてもどかしい。

キャラクターとしては、一のモテぶりと美貴の破天荒ぶりが目立つけど、長谷川家で一番問題なのは母だ。

内面の歪みを感じずにはいられない。

美貴の破天荒の原因も、ほぼ間違いなく母の歪みだ。

にもかかわらず、家族の誰もその歪みを無視している。
三人がそれぞれそれなりに気付いている気配はある。
でも、立ち向かわず、指摘せず、逃げ切らず、切らず、厭わない。

逃げた父は、ああいう形で戻るべきではなかった。
薫は当たり前に帰省せずに切るべきだった。

ここもフィクション感の薄さの原因であるだろう。

もう一つ挙げるとすれば、マイノリティの描かれ方だ。

「フィクションだぞ」と言い聞かせながら読まないと苦しい。

特に“フェラーリ”の描かれ方は残念に思う。

一は、事故で思うままにならない自分を、あの日の“フェラーリ”に重ね、落胆し、“フェラーリ”に重なった自分を受け止め切れずに自ら命を絶つ。

一は自らの命を絶つことで、あの日の“フェラーリ”をも殺してしまった。

サキコさんにしても、ゲンカンにしても、美貴を愛した薫さんにしても、そのマイノリティゆえに押し付けられたズレを曝け出され、救われない間に物語が終わってしまう。

救ってあげられないもどかしさと苦しさが、最後に何かで救われれば読後感は変わったかもしれない。

最終盤のサクラの命の綱渡りがその救いのつもりだったのかもしれない。あるいはその後の家族の姿。

でも、私の目には救いにならなかった。

酷い話だが、あそこでサクラが死んで、家族が離散することで、それぞれの人生が新たに歩み出す方がスッキリしたかもしれない。
フィクション感が高まって救われたかもしれない。

そして私は気付いた。

私はフィクションに救いを求めていたのだと。

高いレビューをつける作品は、序盤、中盤で重かったり苦しかったりしても、最後に救いがある。

ハッピーエンドというのとは違う。

バッドエンドが救いになることもある。

結末が苦しすぎて再読できない数少ない作品、「地下鉄(メトロ)に乗って」も、アンハッピーエンドではあったが、ある意味ではそれが救いだった。

私は「さくら」に救いを見出せなかった。
代わりに、私がフィクションに求めていることを見出した。

これからもフィクションを読み続ける。
救いを求めて。

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