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足るを知る、当たり前にそこにあるもの

鍋って便利だなと思う。

急にどうしたと思われかねない書き出しだが、12人分の豚汁をばかでかい鍋で作った後に、無事きれいに空になった鍋を洗いながらしみじみと思った。

この道具さえあれば、どんな野菜も肉でも火を通すだけで料理ができて、しかもそれをしばらくの間そのまま冷蔵庫に保管しておいたりできる。

中身がなくなったら水で洗うだけでまた新しい料理が作れる。火加減だって性能の良いガスコンロで自由自在だ。ひたすらに便利。

話の主旨がまったくつかめないと思うのだが続ける。笑

わたしはふだんキャンプに行くのだが、いわゆるギアに凝るタイプの洗練キャンパーではなく、必要最低限のものしか持っていかない質素キャンパーである。

火加減の調節も怪しい携帯用のガスバーナーと、焼くか、煮るかくらいのことしかできない金属の器に、申し訳程度に取手がついたみたいな携帯用鍋くらいしか持っていかないので、はじめて行った時は目玉焼きを焦げずに焼くのすら、こんなにむずかしかったのかと思うほどだった。

キンキンに冷えたビールだって、かさばるクーラーボックスが荷物になるのがめんどうくさくて、いまだに保冷剤みたいなものを小さいソフトクーラーボックスに突っ込んだだけで誤魔化している。

はじめはごく質素な装いでキャンプをスタートするのに、不便さからだんだん、家と同じようなクオリティの高い料理が作りたかったり、快適に過ごしたくてみんなギアなどにこだわっていくのだ。

「お金をかけて不便なことをしに行くのに、そこでもまた便利を追求するなんて、何がしたいのかわからないよね」と、快適なギアを買い尽くした手だれキャンパーさんが言っていた。

まったくその通りだと思う。

わたしたちはなんでも手に入る生活に慣れすぎて、もっというなら飽きていて、退屈しているために、わざわざ時間とお金をかけて不便で思い通りにならない「体験」をしに行くのに、そこでも結局思い通りにならないと気が済まないのだ。

どこまで贅沢で、飽き足らない性質をお持ちなのかと思う。

わたしたちはしあわせなのだ。

これ以上、なにひとつ手に入れなくても良いくらいに。


この資本主義社会であり物質社会では、何かを手に入れて何かの特別な体験をしたら、もっとしあわせになれるのではないかと思い込まされていて、いつまでも不足の中に生きていくことを推奨されている。


本当は家に鍋とガスコンロがあって、食材を保存しておける冷蔵庫があって、冷蔵庫を冷やしてくれる電気が通っていて、いつでも快適な火加減で豚汁を作れることがとんでもなく幸せであるのにも関わらず。


そんなことにすら、しあわせの中にいすぎて気付かなくなっているだけにすぎない。


キャンプをはじめると幸福度が上がるというのは、自然の力を借りていることももちろんそうなのだが、この「いつも当たり前にあるもののありがたさ」に気づく人が多いからなのではないかと思う。


わたしが当初キャンプをはじめたときの「便利になりすぎて逆に不便な生活をしてみたい」という願いすら、とんでもなく贅沢でしあわせなことだと気づくのに、時間はかからなかった。


どうやらわたしは、不便がもともと好きらしいので、指一本動かさずにAIがなんでもやってくれる時代にはあまり魅力を感じなそうだ。


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