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不便は楽しくて鮮明なこと

仕事で会議が長引いた日、ごはんを作るのがめんどくさくなって近所のあまりいかない場所にごはんを食べに行った。

ふと隣の建物を見るとTSUTAYAがあった。
おー!こんな近所にTSUTAYAあったんだっけか、ぜんぜん気づかなかった。

めちゃくちゃ懐かしくなってふらっと立ち寄った。TSUTAYAなんて何年ぶりに来たんだろう。

動画サブスクが普及した今、わざわざ店舗にDVDを借りに来る人があまりいないんだろうなとすぐわかるくらい、店内はガラガラだった。

学生のころ、夜に部屋着のまま近所のTSUTAYAにしょっちゅうDVDを借りに行って、彼氏や友達の家に泊まって見たり、学校帰りに好きな音楽のアルバムをまとめ借りして、車のオーディオやMDに落としたりしていたのに。

この令和の時代にMDとか言ったって通じないんだろうな。笑


本や映画が大好きだったわたしにとってTSUTAYAは定番の寄り道場所だったのに、いまではまったく行かなくなり、自宅から一歩も出ることなくFire Stick TVで映画を見ている。

スマホやiPhoneが当たり前になって何年経っても、いまだにガラケーでメールをやり取りしていた時が一番楽しかったなーと思う。

人によって着信音や着信ランプを変えたり、メールが届いてないか問い合わせをしたり。

仲のいい友達とか、彼氏のぶんだけ音楽を変えておくのだ。着信した時にみんなとは違う音楽が鳴るので、誰からメールが来たのかわかるたびにどきどきして楽しいから。

今はみんな同じiPhoneを持っていて、どのスマホからも同じLINEの通知音が鳴るのがさみしい。
そこになんの感情も乗らないから。

LINEの既読機能なんてできなければ、既読無視なんて言葉も生まれなかったんだろうな。恋愛だって、ただ返信を待つだけの楽しい時間しか生まれなかったんじゃないだろうか。

便利さだけみたら今とは比べ物にならないのに、不便な時代の方がさみしくなかったし、誰かとの思い出を鮮明に思い出すのはどうしてだろう。

便利というのは、だれにも頼らなくても生きていけることなんじゃないだろうかと実は思う。

方向音痴なわたしは、仕事で道がわからないと、いつも同僚を付き合わせて道を教えてもらったついでにごはんを食べに行ったりしていたし、音楽を聴くときもいつも誰かに教えてもらっていた。
どこかに行くにも何をするにも、だれかとの中にいつも共通の思い出があった。

でも今は、生活の中にその「だれか」の存在がなくても特に不便を感じなくなってしまった。
GoogleMapがあればどこへでも行けて、音楽は全部YouTubeに流れている。
わからないことがあっても全部ネットで調べられる。

いつからかわからないが、わたしはほとんどだれにも何も聞かないし、頼らなくても行動がすべてひとりだけで完結していて、不便を感じずに生きていけるようになっていた。

もちろん、目に見えないところで社会やシステムのいろんな恩恵を受けて、支えてもらって生きていることに変わりはないのだけど。

目に見えている自分の半径数メートル以内の人と関わらなくても、なんら不便なく生きていけるようになったということだ。

わたしたちはなにもかも持っていて、つながりたいときに誰とでもつながれる。
やりたいことがあれば、ネットの海にやり方も必要な道具もすべて書いてあるし、欲しいものがあればボタンひとつで手に入る。

満ち足りていてとても豊かで便利な世界に生きている。

なのにあの不便だったころよりもさみしいし、どんなに欲しいものを手に入れてもからっぽな気がしている。

なんの映画を見ても、なんの音楽を聴いても、何十回LINEが鳴っても、何年も先まで思い出すような鮮明な何かが薄れている気がしてならない。

そんなことをとりとめもなく考えながら、何回もTSUTAYAの棚の間を往復していたら、急に大好きだった「ロングラブレター〜漂流教室〜」が見たくなったのでまとめ借りして一気見した。

そんな折、偶然にも同時期にTVerでロングラブレターが21年ぶりに再放送されてるではないか。

え、なんで今ごろ再放送?シンクロ?と思い、なんとなくnoteに書いておこうと思っただけである。

ドラマの中に出てくる

「僕たちは生まれた時から平和だった」

「なんとなく生きていたんだ、ただぼんやりと」

「今を生きろ」

というセリフは、当時の2002年よりもずっと便利に生きることが可能になった今の時代の方が刺さるのではないかと、なんとなく思った。


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