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最果ての島にあった、私のためのコップ①

前回の記事の前日譚。
私は心療内科でもらった薬の説明書を当時のバイト先の店長に見せた。

「あー。。なんとなく、そうかなぁって思ってた」

ほんの1ヶ月前に働き始めた飲食店だったが、
「食べること」「食べないこと」で悩んでいた当時の自分にとって、毎日大量の食べ物と他人の食事風景を目の前にする仕事は、自分にとって相性が悪かったのだと思う。

そのひと月で過食症が悪化して一気に太り、
精神的に不安定で、働くことも日常生活もとてもしんどくなってしまい、
『これは普通じゃない』
と思った私は初めて心療内科にかけこんだ。

おじいちゃん医師に(私的に)冷たい対応をされ、そのクリニックに行ったのはそれきりだったけど、抗不安薬などを処方された。

人員不足の店舗だったのに、そんな事情を抱えた私の【辞めたい申し出】を、先の店長はあまり詮索することなく、すんなり受け入れてくれた。
(あの時はすみませんでした店長・・・!)

続かない仕事と、過食する自己嫌悪の日々。
程なくして私は環境を変えてみようと、母の故郷の沖縄の最果ての離島に行くことを思い立った。

気づくと10年以上も会っていなかったおばあちゃんに「しばらくそっちで暮らしたい」とだけ電話で伝えて、父の運転する車で夜明け前に空港へ向かった。
ラジオからは槇原敬之さんの『遠く遠く』が流れていた。
初めて聴いた歌だったけれど、ちょっと泣きそうになった。

その時乗った飛行機は、初めての一人旅だった。

東京から那覇までの機内は、旅行目的の家族連れやスーツ姿のサラリーマンも多いけれど、那覇から先の離島へ向かう飛行機は、一気に機内の客層が変わった。

小さなプロペラ機に大荷物を抱えて乗り込んでくるのは、飛行機に乗りなれた様子の普段着のおじいやおばあ、独特な『沖縄顔』の地元の人たち、真っ黒に日焼けしたダイバーや釣り人っぽい人たちなど。

窓の外を見ると、眼下にはエメラルドグリーンの海が広がっていた。


小さな空港に迎えに来てくれたおばあは、
「よく来た、心配だったさ、あんたを最後に見た時はまだ子供だったから」と嬉しそうに笑って私の手を握った。

子供の頃は夏休みによく遊びに行っていたのに、それも遠い日の記憶になり、日常に追われ、いつの間にか周りとじぶんを比べながらダイエットと自己否定に苦しみ、摂食障害で心がフリーズしてしまった私が、そんな風に自然に迎え入れられたことに、何だかびっくりしてしまった。

しばらく会わないうちに、私はおばあより背が高くなっていた。

空港からは近所の人の車に乗せてもらい、家まで向かう。
東京では見ない原色の植物、昆虫、鳥、海の潮の匂い。亜熱帯独特の力強い自然。
そして雨風に打たれて寂れた白いコンクリートの建物。
長い月日が経って遠い記憶の隅にあった景色と目の前の現実が、カラーフィルムのようにだんだん重なり合っていった。

東京では杖をついているような高齢のおばあたちも、その島では元気にスクーターを乗りこなし、すれ違う知らない子供は「こんにちは!」と声をかけてくる。

更に、おじいおばあ同士が話す方言はもはや【日本語】ではない。
八重山諸島の方言は、わたしたちが普段使う言葉と語源やイントネーションがかなり違うし、聞き取りも難しく、日本というより、
【日本語も通じる外国】に行ったような気分になる。

家に着いて仏壇に挨拶したあと、「ちょっとこっち来て」と、おばあが私を台所に招いた。

『なんだろう?』と思っていると、

プラスチックのコップを2つ手に取り、おばあは私に聞いた。

「あんた、どっちの色がいい?」

「え?」

「好きな色えらんで」

「じゃあ黄色い方で」

「今日からこれがあんたのだからね、歯磨きの時に使いなさい」

10年ぶりに会ってまずそのやりとり。
思わず笑ってしまった。

今でもその、台所で2つのコップを持つおばあの姿をよく覚えている。

そうして島での生活が始まった。


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