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ピカチュウバッグを通して感じた、エキゾチックジャパン〜生きることは哀しいかい、信じる言葉はないかい?〜


マイサイズの話について、ハッシュタグ企画に参加してくださったり、共感してくださったみなさま、そして温かいメッセージやサポートを送ってくださったみなさま、ありがとうございます...!!
(いただいたサポートはフォトショなどクリエイティブツール、参考資料書籍などの費用として大事に使わせていただきます....!!!)

noteでもTwitterでも、服のサイズについての話を色々書いていたのですが、予想外にこのツイートがバズって、コロンブスが卵を産んだばりに驚いた話をします(コロンブスは卵を産みません、そこに私はいません、眠ってなんかいません)

こちら、3.6万回リツイートされ、いいねの数は17万以上になりました。(2020/06/02現在)

なぜこのツイートがこんなにバズったのか、私にもさっぱりわからない。何ならこの写真を撮った当時3年前(?)もInstagramで投稿した内容だった。時間をかけて作った面白ネタがスベったり、何かの告知や拡散させたい情報がなかなか広まらないことが多いのに対し、バズるつもりのなかったものがバズってしまう現実、世知辛い。やっぱりピカチュウ大先生はすごい。でも、それが、人生なのかもしれない。

よく言いますよね、『彼氏は欲しい時には出来ない、どうでもいい時に現れる』『追わなければ、向こうからやってくる』という言葉。
2年前、ハワイ島でイルカと泳いだ時にも「イルカは追いかけると逃げるので、ただ水面にボーッと浮いててください。向こうからやってきます」と説明され波に身を任せた結果、本当にイルカの方から寄ってきてくれました。イルカすげーー!!!!

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話を戻そう。
実はこのツイートを投稿しようと思ったきっかけは、前回前々回のnote記事にあるように、日本では「普通サイズではない」ことを理由に、店頭にある既製品の中から自分のサイズを探すのは難しいよね、という話から、ハッシュタグ「#マイサイズをフレンドリーに」「#MYsizeforeveryBODY」でツイートされた内容を読むうちに、アパレル側の製造的に難しいサイズ展開問題以前に、そもそも日本では、誰かが誰かの身体的特徴を揶揄したり指摘する文化が脈々と続いているのを改めて感じたこと。

その一方で、ピカチュウバッグについて声をかけられた時のように、知らない誰かとポジティブな会話で関わり合える世の中の方が、よくないこれ?よくよくよくよくよくよくない?的な話をしたかったのだ。

ピカチュウ大先生のムーンエターナルパワーをメイクアップしたからなのか何なのか、ともかくなぜかバズり散らかした結果、何百件ものポジティブなコメントが私のTwitterアカウントに届いた。
バズると通知欄は激流のウォーターフォールになってしまうので、流石に全部は読みきれなかったけど、99.8%がポジティブな話だったと思う。それってかなりすごい。
(ちなみに私は『ウォーター』が英語でうまく発音出来ない。どうしても日本のウォーター発音に慣れているせいで、異国の本番でも私の中のジャパニーズソウルが邪魔をしてしまい、外国人相手に「?」と時を止めた回数は2億4千万回ぐらいある。まばゆいばかりにエキゾチックジャパンなのである。)

話を戻そう。うちで踊ろう。
ピカチュウバッグのツイートに対するコメントは、主にこのような内容だった。

・海外で自分もこういうやりとりをして和んだ話
・日本でも話しかけたいけど躊躇する話
・日本でも勇気出して聞いた/聞かれた話
・日本でも外国人にならなんか話かけやすい
・え、このピカチュウのバッグ欲しい
・あちゆ、わ

ちなみに最後の「あちゆ、わ」は、幼子による誤タップ投稿だと思われる。続いて「さはかにやにさな」という投稿も来ていたので、よっぽど何か伝えたかったようだが、さっぱりわからなかった。
解読できる方がいたらコメントで教えてください。

あと、日本でも普段は他人に話かけない人も、外国人相手になら話かけやすい、とかテーマパークなどの限定空間でなら話かけられる、というのもあった。私も昔、成田空港で話かけられたマダムとお茶して友達になったり、飛行機で隣の席になった人とお喋りしたことがある。

とにかく思ったことは、他人との何気ないやりとりが嬉しい人が多い、ということ。
いやだって、何十年も前の、名前すら知らない他人との会話をずっと覚えていて、思い出すと未だに心がホッコリすることもあるなんて、すごくない!???
うわっ・・・ほっこりの燃費、良すぎ・・・?

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昨今、ネットでの誹謗中傷問題も問われるようになったけど、悪意を持って安易に他人を揶揄する人がいるのに対して、ポジティブなことであっても、他人に声をかけることを躊躇する人もいるジャパン。
そんな社会的風潮の矛盾に、不思議さとモヤモヤを感じた。
でもよーーーーく考えてみると、私は実はそれってどちらも『社会の中で自分を守っている』という意味で紙一重なのかもと思った。

・他人を揶揄する
→他人を揶揄してこちらからわざわざ傷つけにいくことで、自分の居場所や価値観、プライドを死守している。(とても迷惑だからやめてくれ〜)

・他人に声をかけるのを躊躇する(ポジティブなことであっても)
→不審がられたらどうしよう?等の不安から自分を守っている。

特に東京は人口密度が高くて、満員電車などで物質的には他人は近くに沢山いるのに、全くと言っていいほど会話しない。
理由については、恥の文化があるからとか、詐欺や犯罪に巻き込まれないようにするため、とか色々な意見を見たけど、この目に見えない社会的風潮って、一体いつ、どこで、どのように決まったのだろう?(日本でも何十年も前は気軽に話かけてたよね〜というコメントもあった)
社会心理学用語で、『傍観者効果』という言葉もある。

とにかく、家から出て会社に行って、仕事して、帰って...という1日だったら、知人以外に会話する人はいないという人が多いと思う。
そして、みんな口々に言う。『出会いがない』と。

でも例えば、気分が落ち込んでる日に、たった数秒
「よーブラザー、そのスニーカー、イケてんな〜!」
なんて誰かに言われたら、なんかちょっと嬉しくなるに違いないし、
「あの人が持ってるバッグ素敵だな〜」って思って声をかけることができたら、私たちはもっと【誰かとの繋がりと生きやすさ】を感じるのではないかと思った。
(そういう気軽な話かけ、アメリカでは日常的らしい)

例え『ウォーター』がうまく発音できなくても、知らん人のあれこれを揶揄するよりも、知らん人ともポジティブな話を気軽にできる人の多い社会の方が好きだ。
街中で誰かと一緒に拳を上げ「YAH YAH YAH」と歌える方が、私は好きだ。

それでは聴いてください、CHAGE and ASKAで『YAH YAH YAH』





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