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自分は何に喜んでいるか

こんにちは。今日は「喜び」について。


他の人から褒められたら

昨日は仕事・繰り返されるタスクに対する喜びについて書きましたが、これには書いていなかった変数が存在します。

それは外部からの干渉、言い換えれば褒められるとか認められるとかの他人からのアクションで生じる喜びです。

このタイプの喜びも感情を揺らす要因としてカウントされるので、「作業中には」早めに復旧することが望ましいと思います。

ところで、相手の褒め言葉に喜んだということは、そこには「自分で自分を褒めて小さく喜ぶ」だけでは満たされていなかった何らかの要素が含まれていると考えられます。

いわば、自分の作業に対する盲点、気づいていなかった強みを教えてくれていると思うのです。

この場合は作業が落ち着いたところで「喜びの原因」を少し考えても良いかもしれません。

意外な強み

正直な話、自分が他人にどう見えていて、他人に何を提供できているかなんて、自分一人で完全に理解できる話ではありません。

ここで、仮に「◯◯さん、作業中の座っている姿勢いいね!」と褒められたときのパターン分けをしてみます。

まず「自分の姿勢は悪い」「姿勢はあまり気にしていない」と日頃から思っていたとすれば、驚くことはあっても喜びに繋がるかどうかは確定しません。

人によっては下手なお世辞とか、馬鹿にしている、と感じることもあるでしょう。

次に「自分の姿勢は良い」と日頃から強く思っていたならば、これは自己評価と一致しているので自分の姿勢に確信を持って静かに喜ぶことができます。

ここで重要なのが「自分としては姿勢が良いと思っているけど、その確信はない」と思っている場合で、多分これが一番喜びを感じるケースなのではないでしょうか。

こだわりが強みになると

この「良いものだと確信のないこだわり」を「確信ある強み」に変化させる一言は重要な要素だと思います。

こだわりが強みに変わったことで、言われた側はそれを存分に使えるようになると思います。

そして存分に、確信を持って強みを使うことはその強みの成長、進化につながります。

巡り巡ってそれは自分の社会貢献を増やしたり、環境の中で自分のより所になったりします。

常識は非常識

最後に前述の「一言」をもらう手段についてですが……これは月並みな話で「普段と違う環境に行き、人に会う」に落ち着きます。

普段私たちがいるそれぞれの環境では「これくらい当然」「これにこだわっても意味がない」などの様々な思い込みがあると思います。

その思い込みがない空間、人とやり取りすることで、確信のなかった・意識下で見えていなかったこだわりに気がつける、という話ですね。

あとは純粋に、会う人を増やせば意見をもらう人の母数が増え、褒めに遭遇する機会も増えますし。

もちろん、喜びの変数は他にもあると思うので、日々自分の感覚に目を向け、なぜ喜んでいるのかを考えることは各々でやるべきですけれども。

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