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幸せを願う者

 どこへ行けばいいのかわからないまま、夜の中を、前を向いて走っている。
「どうしよう、死んだかな、殺したのかな」
 乱れた息のままに話すから、結がつまずいた。転ばないように引っ張って、また走る。
「結は悪くない」
 ボクが言うと、結は、ボクの左手をより強く握った。
 行く手に壁が見えて、先が丁字路だと知って、角を曲がるために走るのをゆるめる。
 左肩を、捕まれた。結の右手はボクが握っているのに。
 振り向こうとしたら、見えるすべてが歪んだ。
 結の泣きそうな顔もぐらりと歪んだ。
 何が起こったかを認識する前に歪みは消えて、結はやっぱり泣きそうな顔をしている。
 そして、結の向こうに、ボクたちの家が見える。
 戻されてしまったのだと、ボクは理解した。


*****


 死ななかったのか。
 目が覚めてまず思ったことがそれだった。
 死んでもおかしくないほど痛みつけられたはずだ。いや、俺も容赦なく殴って蹴ったから、痛みつけられたというのはおかしいか。
敵わなかったのだ。
 薄暗いここがどこなのか、周りを見ようと首を動かした。
「起きた、ね」
 声がして、部屋の明るさが増した。
 長い黒髪の女の後ろに、俺と殴り合った男が立っている。
「お水をどうぞ」
 サイドテーブルの水差しから、女がコップに水を注ぐ。
 俺は上体を起こした。服は脱がされ下着だけで寝ていたことに気づく。
動いてもどこも痛くない。傷も見当たらない。体は重たく感じるが、激しく動いた後の疲労のようだ。
 コップを取り、ごくごくと水を流しこむ。
「おかわりも、お好きに。何か食べるなら、食堂へ行きましょう」
「ここは寝床屋、だな?」
「はい。ここでは暴れないでくださいね」
 女はにっこりと笑みを浮かべた。男のほうはむっつりと黙って俺を監視している。
「なぜ、俺を殺さなかった?」
 俺は男に向かって言った。
「越境者の一人が俺を刺した」
 刺した?
「ナイフは抜かれてしまっていたから、出血量も多かったよね」
「律……背の高いほうか?」
「いいや、背の低いほうに刺された。ナイフは、おまえが背の高いほうに渡したモノだったが」
 結が刺した、だと?
 観察し、共に行動した時間は長くない。けれど、結が人を刺すとは予想できなかった。
 自分たちを、結を守るために、律ならためらわないだろう。そう思ったから、ナイフは律に渡した。
「ナイフを抜いたのは背の高いほうで、そのまま二人で逃げだした」
「逃げられたから、俺を助けたのか?」
 女は首を横に振った。
「たまたま、よ。仲間が戦っていると知らせを受けたのが、たまたま私とヒイロだった。出血して倒れているジンのそばに、たまたまあなたも倒れていた。ヒイロがエネルギーを吸収したばかりで二人を治すだけのエネルギーを消費しても平気な状態だった、たまたまね」
「ヒイロ? じゃあ、おまえはミユだな?」
 偶然だったと繰り返すこの女が、ミユ。
「自己紹介を忘れていたわね。私はミユ。あなたをボコボコにしたこの人は、ジン」
 ミユは背後の男を手で示した。男、ジンの眉がぴくりと動いた。
「ヒイロは?」
 近くに気配は感じる。ただの守護者とは異なる、ヒイロと呼ばれる者特有の気配を。
「特別室でお昼寝中」
「そう、か」
 世界を滅ぼすために吸収したエネルギーを消化するために、ヒイロは『昼寝』をするのだと、そうだな、知っている。
「おまえたちに礼は言わない。ここに長居するつもりもない。俺はお前たちの敵だ、これからもずっと」
「そう、好きにして。次は殺すか殺されるかになるかもしれないけれど、ここにいる間だけおとなしくしていてくれればいいよ」
 そう言うミユは、本当にどうでもいいようだ。守護者に戻れと俺を説得する気配はない。
 ジンは無表情で、どう考えているかはわからない。ここを出た直後に襲ってくるかもしれない。
「で、あの二人は逃げているのか?」
「いいえ。ジンとあなたのことを知らせてくれた仲間が二人を追って、所属する世界へ帰した」
 俺はうつむいて目を閉じ、深く息を吐きだした。目を開けると、シーツを握る手に力が入った。
「帰った後のことはわからないけれど、彼は口がうまいから、案外丸くおさまっているかもしれない」
「そんな、口先だけでどうにかなる問題じゃないんだ、あいつらの抱えているモノは」
 そう言った俺の声は、思った以上に怒りに満ちていた。
 ジンが威嚇するように一歩近づいてきた。俺がにらむと、ジンもにらみ返してきた。
「そう? 言霊って、あると思ってるよ。言葉にすれば叶うことってあるもの」
 にらみ合いの狭間にいるはずのミユは、あっけらかんとした言い方をした。俺はにらむ相手をミユに変えた。
「そんなもん、なんにもならない。それこそ、社会を根本から変えない限りは」
「変えられるかもしれないじゃない?」
 俺がにらんでも、怒りをあらわにしていても、ミユは平静な態度を崩さない。一方で、ジンの放つ殺気は膨らんでいく。
「あいつらが生きているうちに変わるとは思えない。同性同士というだけでも生きづらい世界なのに、血の繋がったキョウダイだからな」
「あら、血が繋がっているなら、さっきの世界でも認められないじゃない」
「でも、自分からキョウダイだと言わなければ、受け入れてもらえる世界だった」
 俺が二人を連れて行ったのは、同性同士の結婚も当たり前の世界。それを知った二人は本当に喜んでいたんだ。
「だとしても、よその世界に渡ることは許されていないこと。死ぬまでそこで暮らせるわけがない。遅かれ早かれ、連れ戻すわ」
 そう言ったミユから感じたのは、譲らないという強情さ。
 思わず、目をそらした。
「そうやって、幸せになれるチャンスを取り上げるんだな、おまえたちは」
「ルールに逆らうと、自分に不具合がでるじゃない?」
 視界の隅で、ミユの黒髪が流れた。首をかしげたのだろう。
 俺は繰り返す頭痛に負けるつもりはない。
 界境の守護者に課せられているのは『世界の境を越えた者を元の世界へ帰す』こと。
 その任務を放棄することは可能だ。だが、罰則がある。
 死なない程度の苦痛を味わう、ずっと。
 それを、ミユは『不具合』と表現したわけだ。
 そんな不具合が生じることは承知の上で、俺は逆らい続けている。
 終わらない苦痛で自ら死を選ぶときがくるとしても。
「くそくらえ」
 生まれた世界のせいで幸せになれないのは不公平だ。
 別の世界ならば幸せになれることを知ったら、境を越えてでも幸せになりたいと思うのはおかしいことだろうか。
 俺には人を連れて境を越えることができる能力がある。
 境を越えてでも幸せになりたい人のために、この能力を使うことは、それほどいけないことなのだろうか。
「あなたも、認めてもらえない恋をしていたのね?」
 ハッとした。
「おまえたちには関係ない」
 行って。あなたに出会えて幸せだった。あなたとの幸せの記憶があれば、一人でも生きていける。だから、行って、自由になって。
「関係のないことだ」
 今聴いたように記憶の中から甦った声に、俺はシーツを握る手に力をこめた。
「あなた、優しいのね」
 俺はミユに向き直った。色の濃い瞳を正面から見てしまった。
「でも、甘いとも言えるよね」
 ふいっとジンが横を向いた。
「私、ヒイロに甘いから、わかるの。優しくしているけど、甘やかしてもいる」
 そう言ったミユは、困ったような笑みを浮かべた。
「言葉遊びにつきあうつもりはない」
 言い放った俺は、シーツをかぶって横になった。
「食事、後で持ってくるね。ジン、行きましょう」
 二人が部屋を出ていき、扉が閉ざされる音を聞いて、目をぎゅっと閉じた。
 眠るふりだけのつもりだったが、俺はあっという間に眠ってしまった。


 次に目を覚ましたとき、窓からオレンジ色の光が差し込んでいた。
 日の出、か。
 照明は消されていて、サイドテーブルの水差しには水が満たされ、パンが2つ皿に乗っている。
 ミユが座っていた椅子に、俺が着ていた服が綺麗にたたまれている。
 俺は水を飲み、パンにかぶりついた。とりあえずの空腹感を騙し、服を着る。
 石けんの香りが残る服は、血の跡はわずかに残っているが破れは繕われている。反逆者にも親切だな、寝床屋の管理人は。
 俺が守護者だと自覚して眠りにきたときと同じ管理人だろうか。
 礼を言う機会はないだろう。
 俺は窓を開けて、外へ出た。朝の光を全身に浴びながら、足早に寝床屋から離れる。
 どこへ渡ろうとも、俺は守護者には戻らない。別の世界で幸せになれる可能性のある存在を連れて、俺は世界を渡る。
 それが、俺の自由だ。


*****


「先ほどの二人ならぁ死んでないですよぉ。ご安心くださいねぇ」
 ハッとして声の方を向いた。離れた所に、スーツ姿の人が立っている。
 ボクは結を背中にかばう。
「ナイフはぁいただいていきますねぇ」
 そうだ、ナイフ。結から取り上げたナイフが、消えている。
「さようならぁ」
 スーツ姿の人は、舞台役者がアンコールで見せるようなお辞儀をした。そして、ゆっくりと歩いて向こうの角へと消えた。
「律……」
 ボクの手を握る結の手が震えている。
「結……」
 名を呼んで、握る手に力をこめる。
 尻ポケットに入れたままのスマホが鳴った。
 ボクは反射的にスマホを取り出し、画面を見た。メールの通知が止まらないし、不在着信も大量だ。
 何が起こっているのだろう。
 ボクは適当にメールを開いた。


*****


 太陽の光に飲み込まれるように消えた『彼』の残像を見るジンの隣に、リディが並んだ。
「ミユたちに知らせてくれてありがとう」
 ジンはぼそりと言った。
「いいえぇ。回復されてぇ良かったですぅ」
 リディはスーツのポケットから血の付いたナイフを取り出した。
「お返しぃ、間に合いませんでしたねぇ」
「汚れをとれば、トワさんの役にたつかもしれない」
「お手入れぇお願いしますねぇ」
 自分に刺さっていたナイフを受け取り、ジンは寝床屋へと歩き出したが、
「律さんのぉ描いた絵がぁ有名な賞をとったんですよぉ」
 リディの発言に立ち止まり、振り向いた。
 明るさを増していく太陽を向いたままのリディに、ジンは首をかしげる。
「他の作品もぉ買い手がついたってぇ、連絡があったんですぅ」
 リディが話しかけている相手は自分ではないと理解したジンは、改めて寝床屋へと歩き出した。
「あの二人のぉこれからがぁ、ほんのすこぉしですがぁ、明るくなったとぉ思いますよぉ」

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