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「見上げれば、クジラ」第1話

【あらすじ】
相沢優子の上にはクジラがいる。教室では独りぼっちでも、クジラがいるから大丈夫、そう思っていた。
父親と二人で訪れた、亡き母が勤めていた水族館で、優子は同学年の相沢優に会う。学校で見た時とは違いすぎる姿の優に戸惑いながらも、優子は、文化祭で優の絵を見るという約束を優と交わす。
読書という共通の趣味をきっかけに、親交を深める優子と優。互いの秘密を分かち合ったとき、優が優子の味方になると言ってくれた。そして、優子は優の味方になると約束した。
悩みながらも、優と支え合うなかで、優子は自分の本音に素直になることを覚えていく。そして、クジラが優にも姿を見せた。クジラの正体を知った優子は、決意する。

 相沢優子あいざわゆうこの上にはクジラが浮かんでいる。
 空中を泳ぐこのクジラは優子にしか見えていない。
 しかし、優子はクジラが自分を守ってくれていると思っていて、ことあるごとクジラに目を向けては存在を確認して安心する。
 たとえ友だちがいなくても、クジラがいてくれるから、大丈夫。
 そんなふうに心の中でつぶやくようになっても、優子は中学校に通っている。
 夏が終わり、秋の気配を感じる今日も。


 二学期が始まると、優子はクラスメイトの誰からも話しかけられなくなった。
 優子から話しかけると答えてくれる。けれど迷惑そうな顔をされたり、する。
 そうなった原因として思い当たることが、一つだけ。
 夏休みが始まる前に、たちばなさんの誕生日会に誘われたのだが、用事があるから断った。
 橘さんは仕方ないねと言っていたが、周りの女子たちが
「橘さんの誕生日会より大事な用事なんてないよね」
「せっかく橘さんが招待してくれたのに断るとか信じられない」
 と、優子にも聴こえるように大きな声で言っていた。
 だから、たぶん、そのせい。
 橘さんの誕生日会よりも大事な用事はあるのだ、本当に。
 だから優子は、橘さんの誘いを断ったことを後悔していない。

「そのブラかわいい!」
「ていうか成長したよね、胸。うらやましいなぁ」
「えー、これはこれで悩みあるよー」
 次は体育の授業なので、体育着に着替えている。
 橘さんのグループは声が大きな人が多い。よくとおる声の橘さんと競うようにグループの皆が声を大きくしているのかも。
「ブラトップでもスカスカなのより全然良いよねー」
 優子のことを言われた気がしたけれど、振り向かない。
 ブラトップがずり上がるほどのスカスカではないので、これでいい、このままがいい。
 それにしても大きな声だ。離れていてもそう感じるのだから、本人たちが平気でいることが不思議だ。
「キャハハハ……!」
 突然の大きな甲高かんだかい声に、優子は動きが止まった。ほんの一瞬間だったけれども、驚きのあまり優子の体が固まってしまった。
 誰かが笑っているのだとわかっているが、驚いてしまうのは仕方ない。
 はふ、と息を吐いてから、優子は着替えを終わらせ、他の生徒の後について体育館へ向かった。


 優子は運動が得意ではないから、体育はもともと苦手な科目だった。二学期になってからバスケが続き、さらに辛い時間になった。
 それでも、帰宅して祖母の朱美あけみさんに今日の学校はどうだったかと問われれば、楽しかったと返すのが優子だ。
「今日は数学の小テストで満点とれたよ」
「へえ、すごいねぇ。優子ちゃんは勉強もママに似たのかな」
「ママは数学も得意だった?」
「いわゆる理系が得意で、社会が苦手だったよ」
「あたしも社会苦手だから、ママに似たんだね」
 ママに似ている部分があると知ることは嬉しい。ひょろりと背が高いところや、手の指が長いところや、話声も優子はママに似ているらしい。
 優子が生まれてまもなく、ママは交通事故で死んでしまったので、優子はママのことを覚えていない。
 写真やビデオでママの姿も声も知っているけれど、それはテレビで見る芸能人を知っていると言うのと似ている気がする。
 だから、自分にママと似ているところがあると言われると、ママは間違いなく優子のママなのだと感じることができて嬉しい。


 祖父の一太朗いちたろうさんが帰宅してきたので、三人で夕食の時間となった。
 一太朗さんは会社を定年退職した後、友人が経営する喫茶店で働いている。給料は少ないけれど、働くことは楽しいらしい。
 ちなみに、朱美さんは司書の資格をもっていて、近くの図書館でパート勤務している。
 夕食後の食器洗いは優子がやる。朱美さんと二人でしていたけれど、中学生になってからは優子が一人でしている。
 晩酌を楽しんでいる一太朗さんが、
陽向子ひなこの後ろ姿にそっくりだ。陽向子も皿洗いやってくれたなあ。やっぱり女の子だなあ」
 と、言った。
 陽向子はママの名前だ。優子はママに似ていると言われて嬉しいけれど、少しモヤっとした。
 一太朗さんも食器洗いをやったら、きっと朱美さんは喜ぶのに。


 優子がお風呂から出る頃、パパが帰ってきた。パパは建築士で、設計事務所で働いている。たまに帰るのが遅くなって夕食を一緒に食べられないことがある。
 そんな時は夕食をとるパパと一緒にテーブルについて、優子はホットミルクを飲みながら会話する。話題はパパの仕事のことや、優子の学校のこと、次の休みのお出かけ先。
 朱美さんは麦茶を飲みながら、優子の隣に座っている。ちなみに一太朗さんは入浴中だ。
「今日初めて打ち合わせしたお客さんは、同じ名字なんだよ、相沢さん」
「へぇー」
「もしやと思ってお子さんは中学生ですかって聞いたら、そうだって。ほら、優子と一字違いの子、クラス分けの張り紙で見たあの子なんだって」
 入学式の朝、登校してすぐに張り出されていたクラス分けを見ていたなかで、「相沢優」という名前を見つけたことを思い出す。
 優子は四組で、相沢優あいざわゆうは一組。
 一組から自分の名前を探しはじめた優子は、「相沢優」を見つけて「子」を書き忘れられたのかと疑ったが、四組から探していた朱美さんが四組に優子の名前があったと教えてくれたから、一字違いの子がいるのだとわかった。
「あらまあ。会ってみたいねえ」
 朱美さんはそう言って、どんな子なのかと優子に尋ねた。
「見たことはあるよ、あたしより背が低くて静かな感じ。でも、話したことはないよ。端っこどうしだから、会わないもん」
 相沢優と同じ小学校出身のクラスメイトが、廊下を歩く相沢優を指し示してくれたから、顔は知っている。今でも、廊下などですれ違えばすぐに気づく。
 あちらが優子を認識しているかはわからないが。
「ご自宅のリフォームをされるから、ご家族そろって打ち合わせにいらっしゃるかもしれない」
「あたしの話とかしないでね、恥ずかしいから」
「我が子が同じ学校の同じ学年だということしか言っていないよ。これからも言わないように気をつける」
「お願いします」
 優子が真顔で言うから、パパも真顔でかしこまりましたと返した。


 パパの誕生日の日曜日。仕事を休んだパパと一緒に、優子は水族館を訪れた。
 ここの水族館でママは働いていた。ママは育休が明けたらまた働く予定だったが、それは叶わなかった。
 パパは、パパの師匠が設計したこの水族館を見学しに来て、ママと出会った。
「動物でも植物でもなく建物を見物していたから、変な奴だとママの目に留まったんだ」
 そんなことを、パパはよく話してくれる。
 今でも、パパと優子にとってこの水族館は特別な場所だ。
 ママが担当していたペンギンたちのいるエリアでは、とくにゆっくりしていく。
 ベンチに座ってペンギンたちを眺めていると声をかけられた。
「相沢さん?」
 声のしたほうを見ると、メガネをかけたハンサムなおじさんが近づいてきた。
 相手が誰かわかったパパが立ち上がって会釈した。優子はパパにつられて立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。
「どうもこんにちは」
「こんにちは。奇遇ですね。そちらはお子さんですか?」
「はい。優子です」
 初対面のおじさんに緊張しつつも、優子ははじめましてと挨拶をしてさっきより深めに頭を下げた。
「こちらは相沢さん」
「あ……!」
 パパが担当しているという、同じ名字の人。
「自分も相沢で、相沢さんを相沢さんと呼ぶのはなんかこそばゆいですねえ」
 と、相沢さんが照れ臭そうに言えば、そうですねとパパは笑顔で返した。
 そこへ、ウェーブのかかったロングヘアのキレイなおばさんと、優子と同じ年くらいの子どもが現れた。
「あら、相沢さん、こんにちは」
「どうもどうも、こんにちは」
 と、パパがおばさんに挨拶を返したから、優子もまたぺこりと頭を下げた。
 このおばさんは相沢さんの奥さんなのだろう。とすると、おばさんの後ろにいるのは。
 相沢優、だと思う。
 目が合うと、にっこりと笑ってくれた。優子は目をぱちぱちさせて、目の前の人物が相沢優であることを確認する。
 優子は相沢優と思われる人物に手招きされて、ペンギンたちを囲うアクリル板のそばに並ぶ。
「相沢くん、だよね?」
 思わず、尋ねてしまう。
 学校で見かける相沢優とは別人だと思うくらいに雰囲気が違っているから。
「うん、相沢優、だよ。相沢優子さん」
 にこにこしている相沢優は、明るいオレンジ色のTシャツとジーンズという服装。前髪を真ん中でわけておでこを見せ、目元や唇にメイクをしている。
 はっきり言って、かわいい。アイドルだと言われても納得できるくらいに。
「学校で見るときとは雰囲気全然違うね」
「うん。学校では前髪をおろして伊達メガネをかけて、おとなしくて地味なフリしているから」
 ということは、優子が知っている相沢優は、地味なフリをしている相沢優ということだ。
「でも、優子さんも雰囲気違うね。まあ、うちの学校の制服がフワフワした感じだから、Tシャツとデニムなだけでも印象がガラッと変わるよね」
「そうだよね、女子の制服ってフワフワ柔らかい感じのワンピースで、ザ・お嬢様って感じがするから……」
 好きじゃない。と続けそうになって、優子は口を閉ざした。変な間ができるのを感じて、あわてて、
「かわいいよね」
 と言い足した。
 相沢優は一瞬だけ目を細めたけれど、優子はそれに気づかなかった。
「優子さんは知ってる? 来年の入学生から、制服が変わるって」
「うん、知ってる。ワンピースじゃなくなるし、女子でもズボンが選べるんでしょ」
 ブレザーも校章以外の装飾のないシンプルなデザインになり、中に着るシャツは自由になる。
「男子でもスカートを履いていいし、ブレザーの合わせも選べる」
「合わせ?」
「一般的には、男ものと女ものだと、ボタンのついている側が違うんだよ」
「へえ! 物知りだね」
 そう言うと、相沢優は照れたように視線をそらした。
「絵を描くし、服が好きでいろんな服を着たいから色々見るし」
「絵を描くの!? 描けるのすごい! 今度見せて!」
 優子の勢いがよすぎたからか、相沢優の身体がった。すぐに体勢を戻した相沢優は、にこにこしながら優子をまっすぐ見た。
「文化祭に美術部で展示するから、よかったら見に来て」
「う、うん」
 そうだ、文化祭はもうすぐ。
「優、そろそろ行くよ」
 相沢さんに呼ばれて、二人はそろって振り向いた。
「はーい」
 元気に返事をしてから、相沢優は優子に笑顔を向けた。
「話ができて楽しかった。ありがとう」
「あたしも楽しかった。ありがとう」
 優子は目線を相沢優から親たちに移してから、そっと言い足した。
「学校でも話しかけていいかな?」
 歩き出そうとしていた相沢優が立ち止まり、優子を振り返った。でも、優子は親たちを向いていて、相沢優は困ったような笑顔で答えた。
「いいよ。学校バージョンの俺でよければ」
「ありがとう」
 今みたいに会話が弾まなくてもいい。話しかけても嫌がらずに返してくれたら、それだけでいい。
 優子は目がじわりと熱くなったから、うつむいた。
「それじゃ、またね、優子さん」
「またね、優さん」
 親たちに合流した優さんを見送り、優子はパパのそばに立った。
「何を話していたんだ? とても楽しそうに見えたよ」
「描いた絵を文化祭で見るっていう、約束、したんだ」
「そうか、楽しみだな」
「うん」
 約束。そう、約束を交わしたのだ、優さんと。
 優子は天井を見上げた。その向こうに浮いているはずのクジラを、今見たいと思った。


第2話

第3話

第4話

第5話

第6話

第7話

最終話(第8話)


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