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「見上げれば、クジラ」第6話

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 日曜日。お昼ご飯を食べ終えた優子は、リュックを背負って紙袋を持って家を出た。
 優さんの家は中学校を挟んだ向こう側にあり、優子が足を踏み入れたことのない地域だ。パパに印刷してもらった地図を頼りに、優子は優さんの家を見つけた。
 優子より背の高い壁に囲まれた、歴史がありそうな大きな家が、優さんの家らしい。
 ぼんやりと玄関先が見える柵状の門の、柱にあるインターフォンを押すと、明るい声が応じてくれた。
『はい』
「こんにちは、相沢優子です」
『こんにちは。ちょっと待っててね』
 まもなく玄関扉が開いて、優さんが走ってくる姿が見えた。
「こんにちは、いらっしゃい」
 優さんはそう言いながら門を開けて、優子を招き入れた。
「こんにちは。優さん、それ、スカート?」
 今日の優さんの服装は、黒の細身のパンツに赤と黒のタータンチェックの膝上丈のスカートを重ね、赤いシャツに黒のゆったりしたベストを重ねている。
「うん、母からもらったんだ。このパンツとなら合わせて着れるかな、って」
「似合ってる!」
「ふふ、ありがと」
 優さんははにかみながら、玄関扉を開けた。
「優子さん、いらっしゃい」
 玄関を入ると、奥から優さんママが現れた。
「おじゃまします。これ、みなさんでお召し上がりください」
 緊張しながら言い慣れない言葉を口にする優子に、優さんママは、
「あらあら、お気遣いいただきありがとうございます。ゆっくりしていってね」
 と、目尻を下げて紙袋を受け取った。
 優さんに促され、階段を上がる。
「どうぞ」
 廊下の突き当たりに優さんの部屋はある。
「お邪魔します」
 緊張しながら部屋に入った優子は、まずその広さに目を丸くした。それから、窓の外に広がる空に驚いた。
「椅子、どうぞ」
「ありがと。景色、すごいね」
 すすめられた椅子のそばにリュックを置いたが、優子は窓に歩み寄って網戸越しに空を見上げた。
 あまりに上を向いたものだから、優さんの家の上に浮かんでいるクジラも見えた。
「目の前が広い畑だからね」
「なるほど」
 言って、部屋を振り返った優子は、広いと感じた理由に気がついた。
 優子の部屋より広い空間に、勉強机と椅子、ベッド。家具がそれだけしかなく、服や小物も見当たらないからだ。
「物が少ないんだね」
「リノベーションの工事がもうすぐだから、仮住まいに引っ越す準備をしてるんだ。だから、残すけど仮住まいに持っていかないものは物置に突っ込んであるよ」
「引っ越すの?」
 尋ねる優子の声は驚きで跳ねていた。
「歩いてすぐのマンションにね」
「じゃあ、学校は変わらないんだね」
「うん、もちろん」
 優さんが笑顔でうなずいたから、優子は安堵して息を吐き出した。
「よかった」
 そのとき、開けたままの扉から優さんママが声をかけてきた。
「優子さん、オレンジジュースはお好き?」
 優子は、はい大好きです、と答えた。
 優さんは優子に椅子に座るよう促し、オレンジジュースとお菓子が乗ったお盆ごと受け取った。
「一階でテレビを見ているから、もし音がうるさかったら声をかけてね」
「わかった」
 そんな親子のやりとりのあと、優さんはお盆ごと勉強机に置いた。
「召し上がれ」
「ありがと」
 さっそくオレンジジュースを頂戴する。果汁が濃く酸っぱいけれどおいしい。
「お引越しするのに、本を貸したら荷物が増えちゃうよね」
 足もとに置いたリュックを見やり、優子はつぶやいた。
「問題ないよ。持ってる本は庭の倉庫に移動させたから、読みたくても取り出しにくくなっちゃってさ」
 だから助かる、と、優さんは続けた。
「それなら、喜んで貸せちゃう」
 優子はリュックから文庫本と単行本をあわせて五冊も取り出した。
「重かったでしょ」
「平気。持ってる本と被ってないかな?」
 本を受け取りベッドに腰かけた優さんは、手早く背表紙のタイトルを読んだ。
「どれも読んだことないや。楽しみ」
「よかった」
 優子はほっとして、オレンジジュースを一口飲んだ。
「わたしからはこれ」
 立ち上がった優さんはベッド脇に置かれていた紙袋を優子に手渡した。
 受け取った紙袋の中身を優子はさっそくチェックする。
 こちらにも文庫本と単行本をあわせて五冊入っている。そしてどのタイトルも、優子は読んだことはない。
「五冊……気が合うね」
「ほんとに!」
 そう言って笑い合う二人の声は廊下にも響いた。


「あの、あのね」
 本を手に取りペラペラとページをめくる優さんに、優子は声をかけた。
「なあに? お手洗いなら階段のすぐ横だよ」
「ううん、お手洗いじゃなくて」
 優子はリュックをがばりと開けた。
「せ、制服を持ってきたんだ。あ、あのね、もしかしたら優さん、着てみたいって思たことあるかな? って考えたり、あの、僕、男子の制服、着てみたいって思うこと、あって、ていうか、スカートやだな、って思うことも、ある、からなんだけど」
 とてもドキドキしていた。優さんに怒られたり嫌がられたり気持ち悪がられたり、嫌われるかもしれないと、とても怖くてドキドキしていた。
 それでも、優子は言った。うつむきながら、ではあっても。
 優さんが無言で、部屋に漂う沈黙に耐えられず、優子はおそるおそる顔を上げた。
「着てもいいの? わたしが?」
 優子が顔を上げきる前に優さんがそう言ったのを聴いて、優子はくいっと顔を上げて優さんを見た。
 優さんは目をぱちぱちさせながら、優子のリュックの中を見つめている。その頬はほんのりと紅。
「もちろん。それに、僕より優さんのほうが似合うと思う」
「そうかな? 一度着てみたいと思ってはいたんだけど」
 恥ずかしそうな笑みを浮かべている優さんがかわいくて、優子はさっきとは違うドキドキを感じた。
「さっそく着てみる? 洗濯してあるし、サイズもたぶん大丈夫だと思う」
 優子はそう言いながら制服を取り出し、優さんに渡した。
「僕、廊下に出ているね」
 制服を受け取り広げて眺める優さんを残し、優子は部屋を出て扉を閉めた。
 しばらくして扉が中から開けられると、優子は振り返った。
「……かわいい」
 優子のつぶやきに、優さんは照れ笑いを浮かべながらも、スカートのひだをつまんでバレリーナのようなお辞儀をした。
「僕よりずっと似合ってるよ、ずるいくらいかわいい!」
「褒められてる?」
「うん、褒めてる!」
 優子にも大きめに作られている制服なので、袖や丈は優さんにも長いのだが、それがかわいらしさを増している。
「お母さまに見てもらおうよ」
「うん!」
 二人は前後して階段を駆け降り、リビングルームに駆け込んだ。
「どうかしたの?」
 ソファに腰かけていた優さんママは、二人の勢いに驚いて振り返り、目を丸くして立ち上がった。
「あらあらあらあら」
「優子さんが貸してくれたんだ。どう?」
「あらあらあらあら、アニメに出てくるプリンセスみたいにかわいいわよ」
 そう言われた優さんは、再びスカートのひだをつまんでお辞儀した。
「優、写真を撮ってもいい? パパにも見せてあげたいわ」
「その前に、優子さんにわたしの制服を着てもらいたい。それから写真撮影にしようよ。ママ、綺麗な制服、出して」
「そうねそうね、そうしましょう。すぐに持ってくるわね、待ってて」
 今度は優子が驚く番だった。
「いいの? 着ていいの?」
 優さんに問うと、
「もちろん! 記念撮影もしていいよね?」
「う、うん。恥ずかしい、けど」
 写真に撮られることは、優子は苦手だ。どんな表情をすればよいのかわからず、いつも優子は固い表情で写っている。
 何かに夢中になっているときの写真は自然体なのだが、数は少ない。
「大丈夫、わたしも恥ずかしい」
 優さんがそう言うから、優子は笑ってしまった。二人の笑いがおさまるころ、優さんママが優さんの制服を持って戻ってきた。
 リビングのつづきの和室で、優子は着替えることになった。シャツを着て ズボンを履きブレザーを羽織る。
 きっちり閉じられた襖の向こうから、
「サイズはどう? シャツは小さくないかしら?」
 優さんママに問いかけられ、優子は襖をちょっと開けた。
「大丈夫です。でも、ネクタイの付け方がわからないです」
 正直にそう言えば、優さんママがなぜか嬉しそうに、
「結んであげる。もう開けても大丈夫?」
 と言った。優子がうなずくと和室の襖がするすると開けられた。
「あれ、優さんは?」
「制服に似合うメイクをすると言って部屋に戻ってる。優もはじめはネクタイが結べなくて、入学前に何回も練習していたのよ」
「そうなんですね。慣れるまでは毎朝大変そうです」
「自分で結ぶのと、人のを結んであげるのではまた違うから、優は人のネクタイを結んであげられないかも。ふふふ、優にまかせてみればよかったわね」
 優さんママのふわふわした髪を間近に見て、優子のママの髪もこんな風だったのだろうかと想像した。
 朱美さんはストレートな髪質だが、優子のママは一太朗さんに似て癖毛だったそうだ。癖を活かしてパーマをあてたみたいなロングヘアだった。
 写真で見たママは髪をまとめていることが多いけれど、髪をくくっていないときのママは華やかで柔らかそうな印象だったことを思い出した。
「さ、できた」
 優さんママは優子を眺めて満足そうにうなずいた。
「姿見を見てみて。似合ってるわよ」
 着替える最中にも見ていた姿見を、優子はあらためて見た。
 鏡に映る自分がいつもの自分よりも凛々しく感じられた。
「優子さん、着替えた?」
 リビングルームから優さんの声が聞こえたので、
「着替えたよー」
 と返事をして、優さんママと共に和室を出た。
「似合うね!」
「優さん、かわいい!」
 優子と優さんは、ぱたぱたと近づいて、互いを上から下まで眺めまくった。交互にくるりとターンもきめる。
「優子さんが着ると制服がかっこよく見えるの不思議なんだけど」
「優さんが着ると制服が上品に見えるの不思議なんだけど」
 そんなことを言い合っては笑った。
 優さんの制服は今の優子にちょうどいいサイズだが、優さんに優子の制服は袖やスカート丈が少し余る。優子の許可を得てから、優さんママが安全ピンを使って優さんに似合うようにつめた。
 互いに制服に慣れてきたところで、優さんのスマホを使っての撮影会となった。
 普段なら写真を撮られるのは避けている優子だが、優さんとの撮影会は楽しい。
 ポーズをあわせたり、ただ笑っていたり。
 こんなにたくさん笑うのは久しぶりな気がして、優子は嬉しくなってまた笑うのだ。


 たっぷり笑った撮影会は、優さんのお腹が鳴って終わりを迎えた。
 優さんママがお菓子を用意してくれている間に、優子と優さんは制服から私服に着替えをすませた。
「たくさん笑ったからのども渇いたよ」
「そうだね、いっぱい笑ったね、とっても楽しかったね」
 リビングルームのソファに並んで座っていると、優さんママが飲み物とお菓子を持ってきてくれた。
「たくさん飲んでもいいように、ノンカフェインの黒豆茶を用意しました。優子さんからいただいたお菓子もいただきましょう」
「わーい! 優子さん、ありがとう、いただきます」
「うん、召し上がれ。僕もいただきます」
 優子が持参したお菓子は、一太朗さんが働く喫茶店で出している手作りフィナンシェだ。多く作られていないためでもあるが、売り切れることもあるほどの人気商品を、一太朗さんが買ってくれた。
 黒豆茶とお菓子をいただきながら、優さんのスマホでさっき撮影した写真を見る。
 どの写真でも、優子は笑っている。キリッとクールな表情を試みたはずの写真でも、優子は笑顔だ。
 それは優さんも同じに見える。
 本当に本当に、楽しかった。
「持って帰りたい写真はある? 普通の紙でよければ帰るまでに印刷しておきますよ。ディスクに保存することもできるし、どちらがいい?」
 優さんママの提案に、優子はハッとした。優さんママを見つめ、優子は考える。
「一枚を厳選するので、それを印刷してもらえますか?」
 そう言った優子を、優さんは目を丸くして見つめた。それからすぐに表情をゆるめてこう言った。
「わたしも一緒に、とっておきの一枚を選んであげる」


「今日はありがとうございました」
 優子は丁寧なお辞儀をした。借りた本と制服の入ったリュックを背負い、優さんママからいただいた手土産の入った紙袋を左手に持っている。
 優さんと選んで印刷してもらった写真は、余っているからともらったクリアフォルダに挟んでリュックに入れた。
「こちらこそ、ありがとうございました。とてもとても楽しかった」
「僕も楽しかったよ。それじゃ、明日、学校で」
「うん、明日」
 名残惜しいけれど、優子は家に帰るために歩き出した。
 角を曲がるときに振り返ると、優さんはまだそこにいて手を振ってくれた。
 優子は大きく手を振って、その勢いのまま走り出した。



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