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「見上げれば、クジラ」第5話

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 味方になる。
 そう決めた。
 でも、何ができるだろう?
 カフェを出た後に書店に寄って、優さんと分かれて帰宅してから、ずっと考えている。
「何を悩んでいるんだ? パパに相談してくれないかな」
 寝る準備をしていた優子の部屋を、お風呂上がりのパパが訪れた。
 優さんのことは話したくないけれど、自分だけでは思いつきそうにない。だから優子は具体的な話はせずに、質問だけを投げかけた。
「パパが誰かの味方になったら、何する?」
 パパは、ふむ、と言って腕を組んだ。
「そうだなあ、敵によるかなあ。戦って勝てそうな敵なら全力で戦うし、勝つ見込みがないなら逃げる手助けをするか、より強力な味方を探す」
 わかるけれどわからない。優子の眉間に皺が寄った。
「でも、味方する人物がパパにして欲しいと思うことをするのが、一番良いと思う」
 と言ったパパが、優子の肩に手を置いた。
「味方したい相手に尋ねられないなら、自分がしてもらいたいことを考える。自分が味方にしてもらえたら嬉しいことを、考える」
「自分がしてもらいたいこと」
 つぶやいて、優子は右手を顎に添えた。
 優さんが優子にして欲しいと思っていること。
 優子が味方にしてもらいたいこと。
 すぐには思いつかないけれど、パパに尋ねる前よりは、何を考えればよいのか何を探せばよいのかがわかった気がする。
「パパが優子にしてもらえたら嬉しいことは、優子の笑顔を見せてもらうことと、たまにハグ、ぎゅーっとね」
 そんなパパの明るい声に、優子はパパを見上げた。
 パパが満面の笑みで両手を広げるから、優子は笑ってしまった。
 そして、パパの胸に飛び込んでハグしてあげた、ぎゅーっと。
「ありがと、パパ」


 優子は、自分がしてもらいたいことが思い浮かばなかった。
 だから、優さんにしてもらって嬉しかったことを、思い出しながらメモに書き出すことにした。
 水族館で普通に話しかけてくれたこと。
 学校で話しかけてもいいと許してくれたこと。
 優さんの絵を一緒に見たこと。
 本を貸してくれたこと。
 秘密を打ち明けてくれたこと。
 話をちゃんと聴いてくれたこと。
 味方だと言ってくれたこと。
 まだまだたくさんあると思うのだけれど、優子は眠くてたまらず、ベッドに倒れこみそのまま眠ってしまった。

 クジラが海の深いところを泳いでいる、その姿を海の底に立って眺めている。
 そんな夢を、優子はみた。
 目が覚めれば消えていく夢の中身の、けれど、自分の上にいるクジラが海の中で泳いでいる姿を見た、その不思議な感覚は、優子の記憶にしばらく残った。


 優子の学校が休みでも、大人たちの仕事が休みではないときがある。
 そんな日は、優子は朱美さんの働く図書館へ行くことにしている。
 朱美さんが働いている間、優子は図書館の中で過ごし、朱美さんの休憩時間は一緒に近くの飲食店で過ごし、朱美さんの仕事が終わると一緒に帰る。なので、今日も優子は図書館にいる。優さんに借りた本の作者の他の小説を求めて、文芸の書架に向かう。
 その途中で、優子はセクシャルマイノリティに関する本が並ぶ棚に気づいた。
 立ち止まり、難しくなさそうなタイトルの本を棚から抜いて、その場で開いた。
 序盤に、LGBTQ、それぞれの文字が示す意味が説明されている。
 それを読んだ優子は、ハッとして息を飲んだ。
 自分の性別は男でも女でもない、どちらとも定まらない、定めない、そんな人もいるのだと、初めて知ったから。
 そして、
 僕も決めなくていいんだ
 そう思った。
 さらに、他者に恋愛感情をもたない人や、性的欲求をもたない人もいるのだと。
 衝撃の事実だ……
 優子は本をぱたんと閉じ、書架に戻した。
 それから、早歩きで図書館を出て、裏手の駐輪場に来た。ぐるりとあたりを見まわして他に人のいないことを確かめてから、優子は上を向いた。
 今も、クジラは優子に腹を見せて浮かんでいる。
「僕、恋愛感情ってどんなのかわからないけど、自分が女だってことがなんか違う感じするけど、男だとも感じないけど、僕、それでもいいんだよね、そんなんでもいいんだよね」
 はっきりと声に出した言葉は、思いはまとまりのないものだったけれど、優子は真剣な眼差しでクジラを見上げている。
 すると、クジラがすーっと、優子の真横、並ぶ自転車すれすれの高さまで降りてきた。
 大きなクジラの小さな目が、優子を映している。
 そして、ゆっくりと瞬いた。
 まるで、うなずくように。
「ありがとう、クジラさん、僕、僕……」
 優子は恐る恐る手を伸ばす。
「僕、クジラさんが大好きだよ」
 クジラに触れる前に、優子は手を止めた。
 今じゃない、まだ
 突如浮かんだ思いが、優子の手を止めた。
 クジラは泳ぐようにのぼり、優子の頭上数メートルの、いつもの高さに戻った。
 クジラの腹を見上げ、優子は両の拳を突き上げた。


 その日の夜、優子はパパの寝室にいた。
「パパにきいてほしいことが、あるんだ」
 帰宅したパパにそう言うと、
「今聴くのと、寝る前に聴くのと、どっちがいい?」
 ときかれたから、優子は寝る前を選んだ。だから、パパがお風呂から戻るのを、パパの部屋で待っているのだ。
 パパの机のパソコンの横に、ママの写真が置かれている。
 パパとママの結婚式の写真。赤ちゃんの優子を抱くママの写真。赤ちゃんの優子を抱くパパとママと祖父母たち、七人でテーマパークへ行ったときの写真。
 どの写真のママも笑顔だ。ママを囲むみんなも笑顔だ。
 赤ちゃんの優子だけは、眠っていたり眩しそうにしている。
「お待たせ」
 ドアが開いて、二つのマグカップが乗ったトレイを持ったパパが入ってきた。
「ホットココア、飲むか?」
「うん、もらう。ありがとう」
 パパは自分のマグカップを持って、ベッドに腰かけた。
 優子はパパの隣に、少し間隔をあけて腰をかけ、マグカップに視線をおとした。
「あのね、パパ。今日、図書館で本を読んだんだ」
「うん、どんな本?」
「LGBTQについて、の、本」
 パパがどんな風に聴いているのかを知るのが怖くて、優子はマグカップから視線を上げられない。
「その中でね、自分の性を決めてない人をクエスチョニングって言うんだって書いてあって。自分が男か女かも決めなくていいんだ、って思ったんだ」
 優子は大きく息を吸って、すこし吐いて、それから言葉を続けた。
「あたし、も、自分が女か男かって決めなくていいんだなって思った」
 言って、ココアを一口飲んだ。ココアの優しい甘さが、優子の緊張をほんの少しやわらげてくれた。
「恋愛感情のない人や、性欲のない人もいるんだって知って、あたしだけじゃないんだ、って安心した、嬉しかった」
 駐輪場で突き上げた拳、今はマグカップを持つ手を、優子は見つめる。
「ほんとは、あたし、って言うの変な感じしてる。僕、のほうが、言いやすい、んだけど」
「だけど?」
「朱美さんが、前に、女の子だからやめなさい、って言った、から、家でも使っちゃダメなんだな、って」
「そうか……」
 ベッドがきしんだから、優子はパパを向いた。パパは片手をベッドにつき体を反らせて天井を見上げていた。
 優子を視線に気づいたのか、パパは姿勢を戻して優子に向き直った。
「それじゃ、パパがいるときは僕にするといい。朱美さんや一太朗さんもパパが何も言わなければ、慣れてくれるさ。パパから話をしてもいいし」
 パパの言葉に、優子は目をパチパチさせた。
「僕、って、使っていい?」
「もちろん! 優子がそうすることで、優子らしくいられるなら、それでいいんだ」
 パパはにっこり笑って、優子の肩を抱いた。視線は机の上の写真に向いていて、つられて優子も写真を見た。
 ママは笑っている。みんな笑っている。
「パパも勉強するよ。優子のことを応援するためにも、な」
 優子はこくりとうなずいた。
「他にも知りたいことがあるんだ」
「なんだ?」
「えいちえすぴーって知ってる?」
 優さんが言っていた言葉。図書館で見つけることが、今日はできなかった。
「いや、聴いたことないな。明日、パパが調べておくから、今日はもう寝ようか」
 そう言われると急に眠くなって、優子はあくびをした。
「マグカップはパパが片付けるから、もう寝なさい」
「うん、ありがとう、おやすみなさい」
 目をこすりながら、優子は立ち上がりドアノブに手をかけた。
 そこで、ふいに振り向き、優子はパパに抱きついた。
「ありがとう、パパ」
「どういたしまして。パパは、誰かの味方になりたい優子の、強力な味方だ」
「うん、がんばる」
 パパの子で良かったと、優子は心の底から思った。


 優さんに本を返すために、優子は放課後の美術室を訪れた。
 美術室では、部員たちがそれぞれに距離をおいて、絵を描いたり彫刻したり創作に専念している。
 が、優さんが見つからない。描きかけの絵の前の椅子が空いているから、優さんはどこかへ離れているのだろう。
 そう予想した優子は、廊下を階段のほうへと向かう。優さんを待つのにちょうどいい場所を求めて。
 すると、階段を降りてくる優さんを見つけた。その腕には大きな本を抱えている。
「こんにちは」
「優子さん、こんにちは。もしかして、俺を探してた?」
「うん。本を返したくて」
「読み終わったんだね、楽しめた?」
 階段を降りてくる最中は優さんを見上げ、同じ床に立つと優さんをちょっぴり見下ろすことになるのだが。
「身長、のびたね」
 見下ろす角度が変わった気がする。
「うん、急に」
「そっか。僕ものびてるんだけど、まだ。優さんのほうが勢いよくのびてるんだね」
「うん、ちっちゃいと思われない程度にはのびてほしい」
「そっか」
 いつか優さんの目を見上げることになるのだろうか。
「で、これ。楽しくって二回読んだよ。二作目は三回も読んだけど、毎回感動した」
 と言いながら、紙袋を差し出す。
「読むの早いんだね。気に入ったのなら、この作家さんの他の小説も貸すよ」
「それじゃ、僕のお気に入りも優さんに貸すから、貸しあいっこしようよ」
「いいね。今週の日曜日、予定がないなら俺の家に来て読書会ってどう?」
「行く! 暇!」
 優子は小さくガッツポーズしながら言った。
「暇なんだ」
 そう言って、優さんは小さく笑った。
「優子さんはスマホは持ってる?」
「ううん。持ってない。塾に通うなら持ったほうが安心だねって話はあったんだけど、まだ先かなって」
「なるほど。メモしていい紙はある?」
「もちろん」
 優子はカバンからノートを取り出して最後のページを開き、シャーペンと一緒に優さんに差し出した。
 受け取った優さんが書いたのは住所と固定電話の番号だ。
「スマホは登録していない番号とは通話できない設定なんだ。日曜日に家にきたときにでも、登録していい番号を教えてくれたら、親に登録してもらうよ」
「家の電話なら今でも言える」
 優さんから返してもらったノートに、優子は自宅の固定電話の番号を書き、ペリペリとちぎって優さんに渡した。
 優さんはそれを制服の内ポケットに丁寧にしまった。
「日曜日の、お昼ご飯食べたあとの……十三時過ぎてたらいつでも来てね」
「うん、わかった」
 優さんの住所のそばに日付と時間を書き足してから、優子はノートとシャーペンをカバンにしまい、カバンをきっちりと閉じた。
 なんだか、カバンが軽くなったような、暖かくなったような気がする。
「それじゃ、部活がんばって」
「うん。描いてくる」
 手を振りあってから、優子は身軽に階段を降りる。優子はなんだか身体も軽くなったように感じた。
 そして、優子は勝手に頬がゆるむのをそのままに、帰宅の途についた。



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