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「見上げれば、クジラ」第4話

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 「家族でよく行くカフェがあるんだけど、寄って行かない? おごる、から」
 優子は、優さんの質問に返さなければという気持ちはあるのに、何を言えばよいのかわからなくて、言葉が出てこない。
 口をもごもごさせるだけの優子に、優さんがそう言い、返事を待たずに優子の手をひいて歩き出した。
 大通りを越えて、一本奥に入ったところに、その店はあった。
 白い壁の四角い建物から漂う大人の雰囲気に、優子は入るのをためらう。だが、優さんが慣れた様子で入っていくので、手を引かれている優子はついて入るしかない。
 店内に入ると、白い壁と、壁のあちこちにある色の洪水に、優子は立ちすくんだ。
 瞬きを繰り返すうちに、壁に飾られた絵画だと気づいた。カラフルな花々の絵が、何枚も飾られている。
「いらっしゃいませ、こんにちは」
 奥から白シャツに黒いズボンと黒いベストを着た人が現れた。その人は薄い青色のレンズのサングラスをかけている。
「こんにちは。制服のままなんだけど、大丈夫ですか?」
「どうぞ。宿題の教えあいっこでしょ」
 笑いを含んだ物言いに、優子はつられて頬が緩んだ。
「ようこそ、カフェ・アンド・ギャラリー・おふ、へ」
「は、はじめまして」
 自分に向けられた笑顔で、優子はとたんに緊張してしまった。
「お好きな席へどうぞ」
「はい」
 優さんに手を引かれるままに、カウンターの横を通り抜けて、二つきりのテーブルのはたに立った。
 カウンターを超えると、庭に面した窓があるだけで、装飾品のないシンプルな空間になっている。
 そこで、優さんは優子を振り向いて、つないだままの手に視線を落とした。
「あ、ごめん。握りっぱなしだったね」
「う、うん」
 優さんの手が離れると、手首に感じていた熱が急に消えて、優子は心細さを感じた。
 窓のないほうのテーブルの、壁を背にする側に座り、優さんと向かい合う。
「失礼します」
 そう言いながらお水を置いてくれるサングラスの人物の、細く束ねられた長い髪に、優子は目を向けた。
「コーヒーは好き?」
 メニューを優子に差し出しながら、優さんが尋ねる。
「コーヒー以外も飲み物はありますから、今飲みたいと思うものを見つけてください」
「海|《うみ》さんのコーヒーはコーヒー苦手でも美味しく飲めるんだから」
「でも、カフェインが体質に合わない人もいるんだよ?」
 優さんと海さんの会話からは、親しい間柄を感じられて、優子は羨ましいと思った。
「コーヒーは、ブラックは飲んだことないけれど、牛乳たっぷりなら好きです」
 二人の会話の隙間をがんばって見つけて、優子は言った。
「それでは、カフェオレはいかがですか? ヨーグルトドリンクもおいしいですよ」
「カフェオレをお願いします」
「ホットでよろしいですか?」
「は、はい」
「それじゃ、わたしも」
「かしこまりました。少々お待ちください」
 海さんがテーブルを離れたところで、優子は気になったことを優子さんに尋ねた。
「わたし、って、言った?」
 優さんは、あ、と口を開けた。すぐに口を閉ざして、肩をすくめた。そして、優さんはすくめた肩を落とし、ため息をつくように答えた。
「うん、言った」
 答えをもらったところで、優子は言うべき言葉が見つかっていなかった。だから、目の前に置かれた水を飲んだ。
 何か言わなければと思って、優子はカバンの中に入っている文庫本の存在を思い出した。
「優さんが貸してくれた本の二冊目、読んだよ。優さんが描いた登場人物わかった。優さんの絵が登場人物の印象そのまんまで、またあの絵を観たいって思って、写真撮っておけばよかったって思ったよ」
 一気に言うと、優さんの表情が明るく柔らかくなって、優子はほっとした。
「照れる……」
 優さんはそうつぶやいてうつむき、水を飲んだ。
「お待たせしました。カフェオレです」
 海さんがそれぞれの前にカフェオレの入ったカップを置き、砂糖入れをテーブルの真ん中に置いた。
「ごゆっくり」
「いただきます」
 優さんの真似をして、優子もいただきますと言うと、海さんは笑顔でうなずき、テーブルから離れた。
 さっそく、優子は温かいカップを両手で持ち上げ、そっと一口、いただいた。
「おいしい……」
 思わず声がもれていた。向かいで、優さんもカフェオレを一口飲んで、カップをテーブルに置いた。
「アウティングって言葉があってね」
 ぼそり、と優さんが言った。まるで、カフェオレに落とすかのように。
「あうてぃんぐ」
 初めて聞く言葉だ。優子はカップをテーブルに置いてから、優さんを見た。
 優さんはうつむきかげんで、カップに視線を注いでいる。
「うん。たとえば、わたしが優子さんにだけ打ち明けたことを、優子さんがわたし以外の人に勝手にばらすこと」
 優さんはうつむきがちで、目だけが優子に向けられている。
「そ、そんなこと、しない!」
 つい声が大きくなったから、優子は周りを見た。海さんも、誰も見えない。
「うん。優子さんはアウティングしないって信じたいから、信じてるから、話してる」
 そう言って、優さんは目線もテーブルに落とした。
「でも、優子さんの負担になるんじゃないかって不安、というか、心配、も大きいんだよ、ね」
 今目の前にいる優さんが、今まで見たどの優さんと違うように感じられて、優子はどきどきしている。
 そして、気づいた。
 優さんに話したい、クジラのこと。
 そう思う自分に。
「あの、あのね、さっきの、自転車のことなんだけど」
 顔を上げた優さんの視線を受けて、優子は話しはじめた。
 パパにしか話したことのない優子の秘密を。


 いつからいるのかはわからない。気がついたら浮かんでいたの。
 クジラが。
 あたしの上に。
 車くらいの大きさのクジラ。
 だいたいお腹が見えてて、クジラのイラストでよくある、縦線の入ったお腹。
 たまに横にいて、そのときは小さな目も大きな口も尻尾も見えて、やっぱりクジラだってわかるんだ。
 それでね、クジラが止まるとあたしも止まっちゃうの。
 さっきみたいに。
 そして、毎回、そのまま進んでたら危なかったってことが起こってる。
 さっきみたいに、角から自転車や自動車が急に出てきたり、看板が倒れたり、建物から植木鉢が落ちてきたこともあるよ。
 そんなにしょっちゅうあるわけじゃないよ、たまーに。
 たまーに。
 ちっちゃい頃は、誰の上にもクジラがいるのかと思ったけど、他に浮いてるクジラは見たことがない。
 パ……父に、あたしの上にはクジラが浮かんでいるんだよ、って言ったらきょとんとしてた。
 そして、こう言われた。
 そのクジラは優子だけの特別なクジラだから、誰にも言っちゃいけないよ。知られたらクジラが取られるかもしれないからね。
 だから、あたしは誰にも、祖父母にも言ったことない。
 父は、あたしが変なことを言う変な子だって周りから思われることを心配してそう言ったのかな、って今は思ってる。
 雨も眩しい太陽の光も遮らないけど、クジラはあたしを守ってくれているんだ、って今は思ってる。


 話し終えた優子は、ぬるくなったカフェオレを飲んだ。
「優子さんにはそんな特別な存在がいるんだね」
 そう言って、優さんは目を細めた。
「うらやましい気もするけど、そんな秘密を抱えているのはつらいかもしれないって気も、する」
「つらいと思ったことは、ないよ」
 反射的に言い返していた。
「誰とも仲良くなれなくても、クジラがいるからあたしは大丈夫だって思える、から」
 クジラだけは、何があっても優子のそばにい続けてくれるはずだから。
「さっき上を向いたのは、クジラを見ていたんだね」
 優子はこくんとうなずいた。うなずいてから顔を上げて、優さんを見た。
「わたしは優子さんと仲良くなったと思っているし、これからもっと仲良くなりたい」
 そう言った優さんの目はまっすぐに優子を見つめていた。
 嘘はない。感じたモノがそんな言葉になるよりも早く、優子の目に涙が浮かんだ。
 じわりと熱くなった目を閉じ、こぼれた涙を手で乱暴に拭う。
「ありがとう。あたし、優さんと、友だち、に、なりたい」
「ふふ、両思いって、こういう場面にも使っていいよね」
 優さんがこぼした笑みに、優子は笑顔を返した。
「いいと思う」
 優子は涙をこぼしながら、あははと声を出して笑った。


「次は、わたしの話を聞いてね」
 涙も笑いもおさまった優子は姿勢を正し、こくりとうなずいた。


「わたしが恋をする相手は男性ばかり。初恋は幼稚園の頃に通っていた体操教室の先生。それからも、同性の上級生や同級生に恋をした。
 でも、同性の子たちと誰が好きかって話題になっても、彼らの恋の相手は異性ばかり。
 だから、自分は普通じゃないんだ、って思ってわたしも異性の名前を挙げたりしてた。
 嘘ついてた。
 親はなんとなく気づいてたんだって。
 テレビを見てるわたしが、男性を見るときと女性を見るときとでは、様子が違ってるらしくて。
 言われてみれば、好きな歌手や役者さんにはかっこいいなあってぽわんってしてたし、女性の服装とか仕草を研究するように見てた。
 そりゃ、親も気づくよね。
 いわゆる男の子っぽくない服を、わたしが着たいと選んだりすることも、親は気にとめてたみたい。
 なんのタイミングか思い出せないんだけど、親にきかれたんだ。
 優が好きになるのはどんな人?
 って。
 わたしは思いきって、男の人、って答えた。そのとき、膝に置いた拳が震えてたことは覚えてる。
 それから、
 優は女の人になりたい?
 ってきかれた。
 わたしは、わからない、って答えた。
 今でも、そう。女になりたいって思うことも、男でいるのがイヤだと思うことも、あんまりないんだ。
 これから、声変わりしたりして体が大きく変わったら、気持ちが変わるかもしれないけどね。
 でも、自分のことを俺って呼ぶのはなんか違和感があって、学校と塾以外では、わたしを使ってる」


 二人ともカフェオレを飲み切っていた。
「ありがとう、話してくれて」
 これだけは絶対伝えたい。言いながら、優子は勢いよく頭を下げた。
「聴いてくれて、ありがとう」
 ゆっくりと顔を上げた優子が見たのは、優さんのほんのりとした笑顔だった。
「あたし、も、あたし、って使うのいや、なんだけど、僕って使ったら、優子は女の子だから僕は変だよ、って祖母に言われたから、しかたなくあたしを使ってる。だから、優さんの気持ち、ほんのちょっぴりだと思うけど、わかる、よ」
 言いたい、伝えたい気持ちが渋滞して、口が言葉に追いつかない優子だった。
「うん、ありがと」
 それでも、優さんは優しく返してくれる。
「わたしには味方がいる。親も、叔父も、海さんも」
 そう言った優さんは、海さんがいるはずのカウンターの向こうを見やる。
ゆっくりと向き直り、優子の目をまっすぐに見ながら、優さんはこう言った。
「わたしは恵まれていると思う。だから、味方が見つからない人の味方になりたい。ちゃんと支えられるような資格を持つ大人になりたい」
 そんな優さんの目が、強く眩しく感じられて、優子は目を細めた。
「だから、優子さんの味方になる」
 優子は溢れ出す涙を手で拭いながら、
「嬉しい」
 今の自分の感情を素直に伝え、
「優さんの味方に、僕はなる」
 決意を伝えた。



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