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本の香りに包まれて

 紙の本の匂いは、なんと心地よいのだろう。
 生まれて初めて、こんなにたくさんの紙の本に囲まれて、私は嬉しくてたまらない。
「すごいです!」
 言いながら、私をここに連れてきてくれた人物を振り向いた。
「そんなに喜んでもらえると、お誘いしてよかったです」
 誰もが振り返りそうな美男に笑顔でこんなセリフを言われて、私は戸惑って、紙の本で埋め尽くされているかのような壁に向き直った。
 慣れていないのだ、キラキラしたことに。
「これが図書館という施設なのですね」
「そうですよ。ヒナさんの世界では一般の方は図書館に入れませんが、この世界では誰でも入れる図書館がまだ多くあるんです」
「羨ましい……!」
 目を覚ませば消える夢かもしれなくても、私は幸せと、紙の本の香りで胸がいっぱいだ。

 始まりは、私が拾った一枚のしおり。
 川沿いの遊歩道を歩いていたとき、足元にひらりと舞い落ちた小さな紙片を、私は拾い上げた。
 四葉のクローバーを押し花にした、しおり、だと思った。
 珍しいなと思いながら、どこから来たのかと顔を上げたら、目の前に彼が立っていて、私は固まった。
「それ、俺のです」
 私は彼が手に持っている物に目を奪われた。
「あ、あの、それ、本物の本、ですか?」
「ええ、そうですよ」
「すごい……」
 一般人が紙の本を持つことは、非常に難しいことで。新しい本はすべてデジタル出版だし、昔の本は希少で、市場に出ても高価で。
「触っても持ってもいいですよ、どうぞ」
「え、ええ!」
 思わず大声を出したけれど、私の手は迷わずに本に触れていた。
 ツルツルしたカバーの感触を味わい、私は両手で彼の手からそっと取り上げた。
「重たい、ですね」
 つい、感想がもれた。
「これは文庫本なので、軽いほうですよ」
「いえ、重たいです」
「この世界の人々が所持しているデジタル端末はとても軽いですもんね」
「いえ、そうじゃなくて……」
 はたと、私は違和感に気づいて口をつぐみ、彼の顔をまじまじと見た。
 ――この世界の人
「俺、タイガっていいます。あなたが俺の手を握って、目を閉じてくれたら、紙の本がたくさんある場所に連れていってあげますよ。いかがですか?」
 怖くなかったといえば嘘になるけれど、好奇心が勝った。
 私は彼の手を握って、目を閉じた。

 夢をみているのかもしれない。目を閉じた瞬間に眠らされて、もしくは殺されて、私は夢をみているのかもしれない。
「好きなだけ触って、好きなだけ持って、好きなだけ読んでください。休館日ですし、警備システムにはお休みしてもらっているので」
「いいんですか、本当に……!」
 言いながら、私は目の前にあった本を抜き出した。
 さっき彼が持っていた本よりも大きくて厚くて頑丈そう。
「緋色の欠片」
 表紙の文字を読んでみた。
「重たい、ですね、やっぱり」
「さっきの文庫本よりずっと重たいでしょ?」
「そうですけど、さっきの本も重たかったですよ」
 隣に彼が並んだ気配に、私は視線を手元の本から本棚へ戻した。
「重たいことが、嬉しそうですね」
 タイガさんは不思議そうな顔をしているんだろうなって思った。今までもいろんな人に不思議そうな顔をされたから、わかる。
 紙の本で物語を読みたい、そう言うたびに。
「電子書籍はどれだけ所持していても、端末の重さには変わりはないじゃないですか」
 動きが重たくなることはあるかもしれないけれど。
「そうですね」
「でも、一冊の書籍ができあがるには、たくさんの人の思いがこめられていると思うんです。それを、手にして重量として感じられるのは紙の本の良いところだと思うんです」
「ああ、なるほど」
 そっと横を見ると、彼は本棚に目を向けていた。
「作者の思いはもちろんですけど、編集する人やデザインする人や、校閲さんや印刷屋さんに本屋さん……、関わるすべての人の思いが重さとしてわかるのが、とっても素敵だと思うんで、す……?」
 彼を見ながら話していたら、ゆっくりと彼が背後を振り返ったから、つられて私も振り返った。
 三人も、いる。そんなに離れていないところに、三人が立っている。いつのまに?
 真ん中に華奢な大学生くらいの女の人。その隣にはTシャツを着た高校生くらいの男の人。反対側には黒いつなぎ姿の、たぶん、人。
「三人がかり、ですか?」
 タイガさんの声や表情が硬く冷たくなって、警戒しているみたいだ。
 この三人は、彼の敵?
「逃がしません」
 黒いつなぎの人は無表情で、そう言った。やっぱり、タイガさんの敵なんだ。
「ここで荒っぽいことはやめません?」
「じゃあ、場所を変えようか」
 Tシャツの男が突き刺すみたいにして言った、かと思ったら何かを投げた。
「……!」
 とっさにあげられた彼の腕に、細いヒモが絡まった。ただのヒモじゃない、ヨーヨーだ。
 ほぼ同時に、つなぎの人が彼の手首をつかんだ。つなぎの人は瞬間移動してきたんだと思った。
 でも、思ったときには、三人は消えていた。
 タイガさんも、黒いつなぎの人も、Tシャツ姿の人も、消えた。
「何が起こったのかわからなくて当たり前だから、とりあえず、座りましょう?」
 消えなかった女の人が示した先には、テーブルとイスが並んでいる。
 私はこくりとうなずいた。

 図書館の中で本を読むためのテーブルとイスなのだと、彼女が説明してくれた。
「私はミユ。あなたは?」
「ヒナ」
 ミユさんのまっすぐな黒髪を見つめていた。長さは私と同じくらいだけど、私は染めてると疑われる茶髪だし、パーマだと疑われるクセ毛。
「はじめまして、ヒナさん」
「はじめまして」
 そう言って、自分が冷静なことに気づいた。何が起こったのか理解はしていないけれど、動揺していないみたい、私。
「ヒナさんは本が好きなんですね」
「本といっても、物語を読むのが好きなんです。登場人物たちが経験するいろんなことを、私も経験できているような気になれるので」
「映画やドラマやアニメではなく?」
「見ますけど、自分のペースで進められるじゃないですか、本って。漫画も。読んでいる最中はその世界に没頭できますし」
「映像だと、人と同時に見る場合もあるものね。映画館とか、家族と一緒のリビングルームでとか」
「人と一緒に見るのがいいって意見もわかるんです、同じ瞬間に同じ感動を共有できるとか。でも、私、自分のペースで過ごしたい人なんです」
「うん。自分のペースを大事にするのも、素敵だと思う」
「私、いろいろとスピードが遅いんです。歩くのとか、食べるのとか。服を選ぶのも時間がかかるし、考えがまとまるにも時間がかかるんです。だから、自分のペースで進められる本があうんです、きっと」
 ミユさんはじっと私の話を聴いてくれているから、私は話し続ける。
「ちっちゃい頃に一度だけ、紙の本を読んだことがあるんです。絵本でした。ページをめくるとき、ゆっくりめくればちょっとずつ絵が見えて、早くめくれば一気に目の前に絵が広がって。私、何回もめくったり戻ったり閉じたり開けたり、飽きずに読んでいました」
 言いながら、自分が本を抱えたままでいることに気づいた。
 本を抱えているから、私は冷静でいられるんだろうか。
「絵本に夢中になったまま眠っちゃって。起きたら絵本はなくなっていて、号泣したことを覚えています、とても強烈に」
 抱えている本の、この重み、匂いが私を落ち着かせてくれているのだと思う。
「それから、本を、物語をたくさん読んできました、電子書籍で。でも、やっぱり、紙の本をもう一度だけでも、開いてページをめくって、物語を読みたいと思っていて、ずっと」
 あれ、目が熱い。と感じた直後、涙がこぼれて、あわてて手でぬぐった。
 ミユさんがタオルハンカチを、私が抱えている本に置いた。
「あ、紙だから、濡れますね」
 私はあわてて本をテーブルにそっと置いた。
「そうね。あなたの頬も濡れているわよ、使って」
「ありがとうございます」
 私はミユさんがくれたタオルハンカチに顔をうずめた。
 涙が止まらないのは、なぜだろう。
「怖かったでしょ、さっきは。ごめんなさい、乱暴な場面を見せてしまって」
 そう言われて初めて、私は怖かったのだと理解した。
 自分が感じたことを、自分が理解するまでも、私は時間がかかってしまう。なんて変な子だろう。
「大丈夫、あなたに危害は加えない、加えさせない、絶対に」
 柔らかくて暖かい手が、私の頭をなでた。私はこくこくとうなずいて、わかったと伝える。
 私が泣き止むまで、ミユさんは私の頭をなでたり、肩をさすったりしてくれた。
「ありがとうございます、泣き止みました」
 鼻をすすりながら言うと、ミユさんがのぞきこんできた。意志の強そうな目が、私を見ていた。
「警備システムを無効化してくれたから、気づかれるまで、誰かが来るまで、ここにいましょうか。それから、私がヒナさんを元の場所へ送ります」
 嬉しいと思った直後、タイガさんを思い出した。私をここへ連れてきてくれた人のことを思う余裕ができみたいだ。
「タイガさん、は、どうなるんですか。殺されるんですか」
「そうしたくない。落ち着いて話し合いたいと思ってる」
 そう言ったミユさんが悲しそうに見えた。
「話し合いができると、いいですね」
 私がそう言うと、ミユさんはくしゃりと笑んだ。優しい人なんだな、と思った。
「ありがとう。さ、朝になって人が来るまで、満喫してください」
「はい!」
 私にできることは、タイガさんが用意してくれたこの機会を逃さず楽しむことだろう。

 分厚いカーテンをも抜けてきた朝の太陽光を感じたころ。
「ありがとうございました」
 私は本棚に向かってお辞儀した。
 たくさんの本を読んだ。といっても一冊一冊にじっくり向き合うには一夜では足りなくて、眺めたというほうがふさわしい。
 本の重たさや、紙のページをめくる感触は、たっぷりと味わえた。
 満足はしていないけれど、まだもっとここにいて紙の本を読みたいけれど、今の私は幸せだ。
「さ、帰りましょう」
「はい。あの」
 ミユさんの手を握って目を閉じれば、私は元の世界に戻れるのだそう。
 でも私は、ちょっとためらった。
「タイガさん、に、ありがとうって伝えてもらえますか」
 そう、タイガさんも他の二人もここへは戻っていない。
 ミユさんは困ったように眉をひそめて、それから笑みを浮かべた。
「伝えます」
 そう言ってくれたから、私はミユさんの手を握って、深呼吸をしてから、目を閉じた。


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