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鏡の迷路

 無限に現れる鏡像の中に、未来の自分とか過去の自分、もしくは自分以外の何かの姿を探しながら、僕はそっと歩く。
 この「鏡の迷路」をこれほどじっくり時間をかけて進む人は、僕の他にはいないだろうと思っている。

 僕のずっと後から入ってきた小学生のグループの後から迷路を出ると、首からカメラをぶら下げた樋口さんと目が合った。
「こんにちは」
 とことこと近づいた僕に、樋口さんは笑顔を向けてくれた。
「いつもより時間をかけて巡りました」
「何か見つかりましたか?」
「何も見つけられませんでした」
 樋口さんの問いに首を振って答えたら、樋口さんも残念そうにため息をついた。
「まだお昼前ですからね、何周でもしてくださいね」
「はい、そうします。樋口さんは何を撮影するんですか?」
「水たまりごしのアトラクション狙いです。どんな天気でも楽しめるんだぞ、と思ってもらえるような風景を」
「むずかしそうですね」
「チャレンジのしがいがあります」
 ぐっとガッツポーズを見せて、樋口さんはまろやかに笑った。
「それでは、ごゆっくり」
「はい、ありがとうございます」
 樋口さんに見送られ、僕は園内のレストランに向かって歩き出した。
 昼ご飯には早いけれど、満席になることもあるから、早めに入って食べておきたい。
 この「T山遊園地」のレストランが満席になるなんて、今でも信じられない。
 だって、僕が知っている「T山遊園地」はとても閑散としていたから。
 おなじ「T山遊園地」のはずなのに。

 四日前。
 僕はT山遊園地の鏡の迷路に入った。
 入場料を支払うだけでアトラクションごとの支払いは必要ないという某テーマパークと同じ仕組みなこともあり、鏡の迷路には係員は不在。
 監視カメラと非常通報装置は目立つところに配置されているから、不安はない。
 ちなみに、その日、鏡の迷路に入るまでに見た客は、回転木馬に乗る小さな子供とそれを支える母親らしい大人だけだった。
 明るさを抑えられた室内。
 迷路を形作る鏡を、一枚一枚、鏡像の奥まで覗きこみ、今の僕以外が映っていないかと探す。けれどやっぱり見つけることはできず、ため息をつきながら鏡の迷路を出た。
 薄暗い場所から外へ出ると毎回、外の明るさに目が慣れるまで少し時間がかかる。
 その時すでに、違和感があった。
 今思えば、行き交う人たちの音が耳に入っていたからだ。
 それから、目に行き交う人たちの姿が飛び込んできた。団体客が通り過ぎたにしては、年齢も服装もバラバラ。集団と呼ぶには、向かう先も歩く速さもバラバラ。
 どうしてこんなに人がいるのだろう?
 僕が立ち尽くしていると、男女の二人連れが僕の横を通り過ぎ、さらに幼児連れの親子も僕を追い越した。
 みな、鏡の迷路から出てきた。僕しかいなかったはずの、鏡の迷路から。
 混乱した僕は頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。
「お客様、大丈夫ですか? 救護室へご案内いたしましょうか?」
 そう声をかけてくれたのが、樋口さんだ。
「ここはどこですか。僕はどうしてここにいるんですか」
 矢継ぎ早に放った問いに、樋口さんは目をぱちぱちさせていた。
「ここはT山遊園地です。入園券をお持ちですか? お客様がお一人でいらしたのかどうか、入園券を拝見すればわかるかもしれません」
 樋口さんに言われ、僕は定期入れの年パスを見せた。
「お客様は、タツミユウ様ですね?」
「はい」
「入園の記録をお調べするので、救護室でお休みになってください。ご案内いたします」
 そうして、僕は救護室へ連れて行かれた。救護室にいたスタッフにすすめられるまま、診察台みたいな狭いベッドに腰かけた。
 樋口さんを待つ間、僕は僕なりに考えた。
 スマホで家に連絡することはできなかった。電波がなくて、メールも通話もできない。ネットで検索することもできない。
 だから、考えた。
 今朝起きてから今までを思い出しながら考えた結論。
 鏡の迷路の中で、僕は別世界に来てしまった。
「タツミ様、おかげんはいかがですか」
 一時間以上は経過したころ、樋口さんが救護室に戻ってきた。
「大丈夫です」
 僕の考えをどういうふうに伝えればいいのだろう。言わずに帰る、にしても、帰り方がわからない。
「実はですね、タツミ様の入園券は現在では取り扱いのない形式でございまして」
 不正に入園したと疑われているのだと、僕は思った。不正といえば不正だろう、僕が入園したのは僕の世界の「T山遊園地」で、この「T山遊園地」ではないのだから。
「念のために、鏡の迷路の出入り口の映像を確認いたしました。タツミ様が鏡の迷路から出てくるお姿はあるのですが、入るお姿が見つからないのです。中のカメラ映像はただいま別の者が確認しておりますが」
 早口ではないけれど、樋口さんの口調が熱を帯びたように聴こえたから、うつむいていた僕は顔を上げて樋口さんを見た。
 僕と目が合うと、樋口さんは口をもぞもぞさせた。それから、ふうと息を吐き、姿勢を正してこう言った。
「タツミ様は、異世界からいらしたのではないでしょうか」
 厨二病な大人の樋口さんと、厨二病な中二の僕との想像が一致した。

 その夜から、僕は樋口さんがパートナーと暮らす家でお世話になっている。
 樋口さんのパートナーである守本さんは、僕が異世界から来たと信じてはいないようだけれど、否定もしない。
「帰り方を一緒に探しましょう。できるだけのお手伝いをさせてください」
 僕にはそう言って、親切な態度で接してくれる。
 でも、お風呂上りの僕がリビングルームに戻ろうとしたとき、樋口さんと守本さんの会話が聞こえた。
「いつまでも、ってわけにはいかないよね」
「うん……期限は決めるよ。……様子をみてユウさんと話すよ」
 まだ、期限の話はされていない。

 次の日から、僕は樋口さんのカメラを借りて開園前から閉園後までT山遊園地で過ごさせてもらっている。
 広報を担当する樋口さんの手伝いとして園内の写真を撮ってまわるのが、鏡の迷路への出入りも自由にさせてもらう条件。
 そしてこの世界に来て三日目。昨夜の晩ご飯の時に、僕は樋口さんと守本さんに、樋口さんの仕事を知りたいと言った。
「どうしてですか?」
 僕は背筋を伸ばして、太股に置いた拳に力を入れて、深呼吸をしてから答えた。
「お客さんが増えたのはドラマのロケ地になったのがきっかけだったって」
 樋口さんは合っているというふうにうなずいた。僕は話を続ける。
「けれど、樋口さんが投稿したSNSが人気にならなかったら、閑古鳥が鳴く状態に戻っていたかもって、聴きました。僕は鏡の迷路がなくなったら嫌だからT山遊園地に客が来てほしい。だから、樋口さんのお仕事を学んで、T山遊園地を盛り上げたいんです」
 それに。
「ここのT山遊園地ではお客さんが楽しそうに笑っていて、それを見たら僕も楽しくなったし、働いている人たちも楽しそうだから、です」
 樋口さんは目をぱちぱちさせて、笑顔になった。守本さんも笑顔で大きくうなずいた。
「まずは、ありがとうございます」
 と、樋口さんが頭を下げたから、僕はあわてて頭を下げた。
 顔を上げた樋口さんの表情はぴりっと引き締まり、真剣そのもの。だから、僕は改めて背筋を伸ばした。
「ですが、今のT山遊園地の賑わいは、私だけの力ではありませんし、私のやり方が唯一の正解でもありません。ということを理解し、納得した上でしたら、私がしてきたこと、やっていること、やろうとしていることをお伝えします」
 僕は音を立てて椅子から立ち上がり、九十度のお辞儀をした。
「よろしくお願いします」

 そして明日から、樋口さんのお仕事を間近で見学させてもらえることになった。
 だから今日は鏡の迷路に集中することにしたんだ、けど。
「元の世界に戻してやる」
 閉園時間が近づいた頃。本日八回目の鏡の迷路を出たところで、体の大きな人にそう声をかけられた。
 その人はアジア系の顔立ちで肌は小麦色。二メートルくらいありそうで、彫りの深い顔を僕はぽかんと見上げた。
「僕、を?」
「そうだ」
「今?」
「できれば」
「それは、困る、です」
 そう返すと、大きな人の右の眉毛がぴくりと跳ねた。怒らせてしまっただろうか。
「君は誰かに連れられてここへ来たのか?」
「いいえ」
 なぜそんなことを尋ねるのだろうと思いながらも首を横にふる。大きな人にじっと見られて、僕は自分の心臓の音が大きく感じられた。
「……何時間後ならいいんだ?」
「え、えっと……今日が終わるまで、待ってください。どうしても樋口さんの仕事を勉強したいんです。この遊園地みたいに、お客さんの笑顔がいっぱいの遊園地にしたい、から」
 僕はしどろもどろになったけれど、がんばって言った。
「わかった。どこにいても必ず迎えに行く。逃げようとしても無駄だ」
「逃げません」
 大きな人がうなずくのを見て、僕は樋口さんを探して事務所に走った。
 事務所の廊下を歩いていた樋口さんを見つけて、僕は駆け寄った。
「樋口さん、僕、帰れる、って」
 近くに他の人はいないけれど、僕の声は小さかった。
「え、方法がわかったんですか?」
 僕につられて、樋口さんも小声だ。
「連れて帰ってくれる人が現れました。今すぐって言われたんですが、どうしても樋口さんのお仕事のこと教えてほしくて、真夜中まで待ってもらいました」
「真夜中……あと六時間、ですね」
「それだけじゃ学びきれないってわかってます、でも、なんとかお願いします」
 僕は九十度のお辞儀をした。
「もちろんです。閉園作業が完了してからになりますが、一緒にがんばりましょう」
「ありがとうございます!」
 言って顔を上げると、樋口さんは笑顔で大きく頷いた。

 樋口さんと僕は帰宅するやダイニングテーブルにノートパソコンやノート文房具を並べた。
 樋口さんはノートパソコンで過去のSNSや参考にした資料を示しながら、今までやってきたことを話してくれる。
 僕は樋口さんの話を聞いてメモをとる。わからないことは質問して、書き足す。
 途中。帰宅した守本さんが片手で食べられるようにとサンドイッチを出してくれた。その後もチョコレートを皿に出して置いてくれた。
 ノート一冊が僕の字で埋まったころ、インターフォンが鳴った。
 はっとして時計を見ると、二十三時五十九分。
「時間ですね」
 樋口さんに言われて、僕はノートを閉じ、立ち上がる。
 インターフォンの画面には大きな人が映し出されている。
「いま、出ます」
 それだけをインターフォン越しに伝えて、僕は玄関に向かう。靴を履きドアを開けると、大きな人が腕組みをして立っていた。
「このノートは持って帰れますよね」
「握っていれば持って帰れるはずだが、保証はできない」
 その答えに、僕はノートを丸めて左手でぎゅっと強く握る。
「ユウさん……」
 振り向けば、樋口さんと守本さん。樋口さんは心配そうで泣きそうに見えるし、守本さんは樋口さんの両肩に手を置いてやっぱり心配そうな顔に見える。
 だから、僕は笑ってみせる。
「散らかしたままでごめんなさい」
「それはいいんです。それより、あなた」
 樋口さんが大きな人を睨んだ。
「名乗りもしない人にユウさんを預ける私の気持ちは想像できますか?」
 と言われた大きな人は、大きな目を丸くして、それからふっと頬を緩めた。
「俺はジンだ。彼は俺が元の世界へ送り届ける。心配無用だ」
 ジンさんは笑った、みたいだ。不器用な笑顔に、守本さんはぽかんとした、たぶん僕も。
「よろしくお願いします。それから、ユウさん」
 樋口さんに呼ばれて、僕は樋口さんに向き直った。
「私が大事にしているのは、T山遊園地が大好きで大切な場所だ、という想いを忘れないことです」
 大好きで大切な場所。
「私なりのやり方をお伝えしましたが、結局は、想いを保ち続けることが大事なんだと思います」
「わかりました。がんばります。ありがとうございました!」
 言って、僕は九十度のお辞儀をした。泣くのを我慢して、僕は顔をあげて笑ってみせた。
「こちらこそありがとうございました。ユウさんのおかげでT山遊園地をもっと盛り上げたいと思いました。私もがんばります」
 そう言いながら差し出された樋口さんの右手を、僕はしっかりと握った。
「それじゃあ、さようなら。本当にありがとうございました」
 樋口さんの手を放した僕の手を、ジンさんの大きな手がつかんだ。
 びっくりして、ジンさんの顔を見ようとしたけれど、その前に樋口さんと守本さんの姿が歪んでいくことに気づいた。
 ノートを握る左手に力をこめる。

 見えるものが歪んで、歪みが消えるとT山遊園地の入り口が見えた。
「ちゃんと持って帰ってこれたな」
 ジンさんに言われて、僕は左手に握ったノートを見た。
「よかった」
 帰ってこれてよかった。ノートを失わなくてよかった。
 そして。
 樋口さんたちに出会えてよかった。
 僕はこぼれた涙をぬぐって、夜闇に佇むT山遊園地を見つめた。

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