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いつものコーヒーを

 タブレットを持って近所の喫茶店に行き、店主こだわりのブレンドコーヒーを飲みながらイラストを描く。
 それが私の休日の過ごし方。
 今朝も、私はいつもの喫茶店に入り、お気に入りの奥のテーブルを陣取った。
「いらっしゃいませ」
 お水とメニューを持ってきた店員さんに、
「いつもの」
 と注文すると、
「いつも何をご注文いただいてますでしょうか?」
 そう返された。
「えっと、ブレンドを」
「ブレンドですね、かしこまりました」
 メニューを持ってさがる店員さんを見送り、カバンからタブレットとペンを取り出しながら、私は動揺していた。
 さっきの会話を思い返す。
 店員さんは不思議がって、いや、不審がっているようだった。言葉を選ばずに言えば、変な奴だと思ったようだった。
 けれど、私はその店員さんにも覚えてもらっているはずだ。
 私がこの喫茶店に通うようになって三年は経っていて、ブレンドコーヒーを注文するときに「いつもの」で通じるようになってからも一年以上が経っている。
 今日の私がいつもと違う見た目かといえば、そんなはずはない。髪型も服装もワンパターンなのが私だ。
「お待たせしました、ブレンドです」
 先ほどの店員さんが、平静の様子でコーヒーカップを置いて、ミルクも置いた。
「以上でお間違いないでしょうか」
「は、はい」
「ではごゆっくりお過ごしください」
 伝票を置いて、店員さんはカウンターへ戻っていった。
 私は置いていかれたミルクをじっと見る。
 いつも私はコーヒーをブラックで飲むから、ミルクを置かれることもなくなっていたのだ。
 どうやら、私はあの店員さんに忘れられている、ようだ。
 ドッキリ? いやいや一般人だし、私。イラストを売っているけれど売上は微々たるもので副業とも呼べない程度。
 とりあえず、落ち着こう。イラストを描くことに集中しよう。
 コーヒーをひと口飲んで、私は再び動揺する。
 こんなに酸味が強かっただろうか?
 この店のオリジナルブレンドは、酸味も苦味もおさえてコーヒーが苦手な人でも飲めるように工夫されている、はず。
 不味いわけではないから飲むけれど、違和感はしっかりとある。
 私を忘れた店員さん、酸味の強いブレンドコーヒー。
 店内をそっと見回したけれど、いつもと変わったところは見当たらない。
 いや、あった。
 『今月のブレンド』という手書きの貼り紙。
 オリジナルブレンドは月替わりなどではなく、基本的には同じ。素人にはわからない程度のアレンジはなされていたかもしれないが、月替わりではなかった、けっして。
 先週から変わった? 月の真ん中で?
 いったい何があった?
 私は残りのコーヒーを一気に飲み干し、タブレットとペンを片づけて席を立った。
 レジに向かう途中で、カウンターの中に立っているマスターと目が合った。マスターが私に向けたのは営業スマイルだった。会計してくれた店員も、常連客への親しみある笑顔ではなかった。
 店の外に出た私は、店の外観を見回した。記憶にある店と変わりないように思える。
 帰ろう。
 マンションへの帰り道にも何か違いがあるのではないかと、キョロキョロしながら歩いた。
 しかし、普段と何が違うのか違わないのかはわからず、自分の記憶の曖昧さがわかっただけだ。
 ほぼ毎日歩いていても、その景色を見ていないのだと気づく。
 マンションに駆け込み、エントランスのオートロックを開けるために暗証番号を打ち込む。
 エラー、だ。
「どうして?」
 思わず声がもれた。
「あなたが暮らす世界ではないんですよぉ、ここってぇ」
 突然に真後ろから声がして、私は文字通り飛び上がった。
 怯えて振り返ると、スーツ姿の男の人がにこやかに会釈した。
 黒っぽい色のスーツとネクタイに白いシャツが似合って見えて、仕事はホテルのフロントではないかと直感した。
「私ぃ、リディと申しますぅ。怪しいと思われてもぉ仕方ないんですがぁ、あなたをぉ元の世界にぃ戻してさしあげますよぉ」
「は?」
 間伸びした言い方、作り笑いにしか見えない笑顔、言ってる内容。どれも、は?、だ。
 ホテルスタッフかと思った自分が恥ずかしいと感じながらも、今の状況と男の言ったことへの理解が追いついていない自覚もあった。
「この世界の存在ではないあなたがここに存在することは不都合なので、あなたがいるべき世界へお連れします」
 やや早口で言いながら、男は私に近づき、半ば自失している私の肩に手を置いた。
 とたん、景色が歪んだ。まるで、刻々と変化するマーブリングを早回しで見ているよう。
 歪みが消えるまで数秒もかからなかった。
 先ほどまでと何も変わらない、いつも通りのマンションのエントランスに、私は立っている。
「あなたのぉ覚えているぅ暗証番号でぇ開きますよぉ」
 男はまた変な話し方でそう言って、テンキーを指し示した。
 私は男に背を向けることに躊躇いを覚えたけれど、早く帰りたい気持ちが勝った。
 ロックは解除された。さっきと同じ暗証番号なのに。
「どういうこと!?」
 言いながら、私はがばっと振り返った。
 男はまだそこにいて、二度うなずいた。よかったよかった、と言うふうに。
「無事にぃ帰ってこられてぇ私の任務は完了ですねぇ」
「いえ、まだです」
 私は男の腕をつかんで、一緒にドアを抜け、その勢いのままでエレベーターのボタンを押した。
「私の部屋に間違いなく帰れるまで、安心はできません」
 エレベーターを待ちながら、私は男に言った。
「なるほどぉ、お供いたしますぅ」
 男が言っている間にエレベーターが到着し、乗り込んで階数ボタンを押し、扉が閉まった。
「他の世界に、なんて、簡単に行けるものなのですか?」
「それはぁむずかしいぃ質問ですぅ」
 エレベーターが止まり、扉が開いた。
「むずかしい?」
 私の部屋は一番奥だ。他に廊下を歩く人の姿は見えない。
「行こうと思ったら行けるというものでもないのですがぁ、ひょんなことからぁ行ってしまうことはぁあるんですねぇ、あなたみたいにぃ。それを簡単と表現してよいかはぁむずかしい問題ですねぇ」
 男が話している間に部屋の前に着いた。
 私はカバンから鍵を取り出し、鍵穴に突っ込む前に深呼吸をした。
「大丈夫ですよぉ」
 そう言われても。
 私はごくりと生唾を飲み、鍵を鍵穴に突っ込んだ。鍵は抵抗なく入り、抵抗なく回った。
 ガチャリ
 鍵の開く音に、私は息を吐き出した。
「ねぇ、大丈夫でしょおぉ?」
 扉を開けて中に入った私は、部屋の様子が今朝出たままであることを確認してまわる。
 脱いだパジャマ。干した洗濯物たち。
「それではぁ任務完了ということでぇ」
「待って、まだ安心できない」
 パジャマはこの形に置いただろうか。洗濯物はこの並びで干しただろうか。
 鍵を開けて室内を見てまわっても、私の不安は消えなかった。
「……どうすればよろしいですかぁ?」
 そう問うた男の顔をじっと見る。しかし、この男がどんな感情でいるのかはまったく読み取れない。
 わかるのは、男の顔に張りついている笑みが仮面だということ。
「コーヒーを飲みに行きましょう」
「はい?」
 私の発言はさすがに唐突だったのだろう、男の顔から笑みが消えて、驚いたようすが瞬いた。
「行きますよ」
 コーヒーの味が違っていたから、私は動揺し困惑し混乱した。
 ならば、コーヒーの味がいつも通りなら、私も納得し安心できるにちがいない。
 靴を履き直し、鍵をかけた私は、男を連れていつもの喫茶店に向かう。
 たどり着いた喫茶店の、扉を開ける。
「いらっしゃいませ、おはようございます」
 迎えてくれたのは、さっきはミルクを置いていった店員さん、だ。
「あ、おはようございます」
 さっきと同じ、奥のテーブル席に、男と向かい合って座った。
「私ぃ紅茶党なのですよぉ」
「ここのオリジナルブレンドはクセがないから大丈夫。飲んでみてください」
 男が小声で言うので、私も小声で返した。
 そこへ店員さんが水を持ってきた。
「えっと、いつもの、を。こちらにも」
 通じるだろうか、覚えていてくれているだろうか、私は緊張しながら言った。
「かしこまりました。そちらの方はミルクをおつけしますか?」
「お願いしますぅ」
「かしこまりました」
 覚えてくれている……!
 私は感動に打ち震えた。
「自分を覚えていてくれる人がいるというのは、嬉しいですね」
「ですねぇ」
「毎日歩いているはずの道に何があるかも思い出せない自分には幻滅しました。なので、これからはよく見てできるかぎり覚えておきたいと思います、人も景色も」
 私は言ってから、照れ臭くなって頭を掻いた。
 向かいに座った男は笑みを消して、真剣な目で私を見つめた。だがそれはほんの一瞬で、直後には胡散臭い笑顔でこう言った。
「がんばってくださいねぇ」
 ほどなくブレンドコーヒーが運ばれてきて、向かいの男の前にだけミルクが置かれた。
 恐る恐る、コーヒーを飲む。
「はあぁぁぁ」
 ため息がもれてしまった。
 これがいつもこの店で飲んでいるコーヒーだ!
「おぉ、おいしいですねぇ」
 男もご満悦そうに感想をもらした。ただし、男はミルクをたっぷりと混ぜていた。
「今度こそぉ、任務完了ですねぇ」
「です。連れ回してすみませんでした」
「いいえぇ。あなたのぉお気持ちはぁ私にもぉ想像できますからぁ」
 コーヒーを飲み干して、男は立ち上がった。
「お先にぃ失礼しますねぇ。ごゆっくりなさってくださいぃ」
 私が何かを言う前に、男はすたすたと歩いて行ってしまう。私はかけるべき言葉も浮かばず、追うほうがいいのかと迷って動けないまま、ただ男を見送る。
 途中、男は立ち止まって店員さんに何かを言ってから、こちらを振り返った。
 私と目が合うと、男は胡散臭い笑顔で手を振り、店から出ていった。
 とたん、私はため息のような笑みをこぼした。
 私はカバンからタブレットとペンを取り出し、あの男の絵を描きはじめた。
 今日のできごとを、男のことを忘れないために。

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