ヴァチカン美術館(Musei Vaticani)vol. 4:修復を経て一般公開中、豪華絢爛なボルジアの間
いよいよ、ボルジアの間(Borgia Apartment)を紹介する。
このボルジア一族は、漫画やドラマ、そしてにもゲームにも登場するため、ご存知の方も多いのではないであろうか。
今回紹介するボルジアの間は、1492年から1503年まで教皇としてカトリック教会のトップに君臨したボルジア家出身のスペイン人教皇アレクサンデル6世(Alexander VI)の時代に作られたものである。
1. ボルジアの間の歴史(Borgia Apartment)
1-1. ボルジアの間の構成
スペイン人枢機卿ロドリーゴ・ボルジア(Rodrigo de Borja y Doms;1431-1503)は、1492年、教皇に選出された。
以降、1503年8月に突然の病に倒れるまで、アレクサンデル6世(Alexander VI)としてカトリック世界を支配することになる。
この教皇の在位中に装飾が施されたボルジアの間は、複数の部屋から成り、現在その一部は1973年のパウルス6世の決定によって現代アートコレクションを展示するスペースとしても使われている。
ボルジアの間の部屋のうち、巫女の間(Room of the Sibyls)と使徒信条の間(Room of the Creed)は、ボルジアの塔の中にある一方で、自由七学芸の間(Room of Liberal Arts)、諸聖人の間(Room of Saints)そして奥義の間(Room of Mysteries)は、ニコラウス5世 (Nicholas V;在位 1447-1455)の時代に建てられた箇所にある。
アレクサンデル6世の死後、前の教皇の記憶に囲まれて暮らすことを望まなかった16世紀初頭の教皇ユリウス2世(Julius II;1503-1513)の意向もあって、これらの部屋は見捨てられたも同然となっていた。
その後も教皇が変わりゆく中で、ボルジアの間は、時々、枢機卿兼教皇の甥たち(nephew Cardinals)といったヴァチカンの中でも今後権力を手にする可能性が極めて高いものたちのための部屋として使われることもあった。
19世紀の末、レオ13世によって、この部屋は、修復前限定の一般公開されることが決まり、その姿を人々の前に見せたのであった。
1-2. ウンブリアの画家ピントゥリッキオ
また1490年代のアレクサンデル6世の在位中に、ボルジアの部屋の装飾を担当したのはウンブリアの画家ピントゥリッキオ(Bernardino di Betto, Pinturicchio;1454-1513)であった。
ピントゥリッキオは、それより前の1481年から1483年にかけてその師匠ペルジーノ(Perugino)に従って、システィーナ礼拝堂の天井画の製作のためにヴァチカンに来ていた。
今ではミケランジェロの天井画が有名なシスティーナ礼拝堂であるが、ミケランジェロの前にはこのペルジーノの絵がシスティーナ礼拝堂には描かれていたのである。
その後もピントゥリッキオは、1470年代以降の5人の教皇ーシクストゥス4世(Sixtus IV)、インノケンティウス8世(Innocent VIII)、アレクサンデル6世、ピウス3世、そしてユリウス2世(Julius II)ーに仕えることになったのであった。
ピントゥリッキオは精緻な絵画を描くことに長けていたために、特にアレクサンデル6世は自身の居室の全ての装飾を彼に任せるほどであった。
教皇領の都市の一つスポレートの大聖堂には、ピントゥリッキオが1497年に製作したフレスコ画が残されている。
金などの鮮やかな色が印象的なボルジアの間は、1492年から1494年にかけて驚くほどのスピードで完成したとされている。
修復作業のためボルジアの間は長年閉鎖されていたが、2019年、ついに一般公開を再開したのであった。
2. 巫女の間(Room of the Sibyls)
巫女の間は、青の背景に巻紙を持った巫女と預言者たちの半円状のフレスコ画に由来している。
天井の中央にはボルジア家の家紋がある。
またこの巫女たちのフレスコ画の間に挟まれる八角形のパネルには、7つの惑星が描かれる。
土星と奉仕活動、木星と狩り、金星と愛、太陽と統治、火星と戦い、水星と商人、月と漁業などなど、それぞれの惑星が人間の活動と結び付けられて描かれているのである。
出窓の天井部分にボルジア家の紋章が描かれていた。
3. 使徒信条の間(Room of the Creed)
使徒信条の間の造りは、先ほど紹介した巫女の間によく似ている。
半円状のパネルには使徒信条の本文を手に持った12人の使徒と預言者がそれぞれ描かれている。
豪奢な天井の様子。
またこちらは部屋の中から窓を撮った様子。
場所にもよるがボルジアの間はこのようにあまり光が入らず、ひっそりしている印象を受けた。
実はアレクサンデル6世の書斎として使われていた自由七学芸の間(Room of the Liberal Arts)がこの後に続くはずなのだが、写真に収めていなかったので文章で説明を進めたい。
順番に部屋を鑑賞していったはずなのだが、ひょっとしたらこの時は閉鎖されていたかもしれないので、また次回に鑑賞することにする。
自由七学芸、つまりリベラルアーツとは、文法、修辞学、弁証法の三学(trivium)と算術、幾何、天文学、音楽の四科(quadrivium)から成り、ここにはそれぞれの学科を表す寓意画が描かれている。
また作者ピントゥリッキオの名前として“Penturichio”の文字が、修辞学の絵に描き込まれているとのことである。
4. 諸聖人の間(room of the saint)
ボルジアの間というとこの部屋の画像を思い浮かべる人もいるのではないかというくらい知名度があるのが諸聖人の間(room of the saint)である。
ここにはアレクサンドリアの聖カタリナなどの聖人たちが描かれている。
エジプト・アレクサンドリア知事コンストゥスの娘であったカタリナ(Sancta Catharina Alexandrina;287-305)は、キリスト教徒としてローマ皇帝マクセンティウス(Marcus Aurelius Valerius Maxentius;c. 278-312)から拷問を受けて殉教した聖人である。
ラファエロやカラヴァッジョといった芸術家たちによっても描かれたアレクサンドリアの聖カタリナは、異教の賢者たちを論破するほど優れた弁論術と知性を持っていた。
彼女はオックスフォード大学ベリオール・カレッジやパリ大学の守護聖人であるとともに、教育者や弁護士、看護師、機械工、学者など数多くの職業の守護聖人としても知られている。
アレクサンデル6世は、このように神秘的かつ人々から愛される聖人の姿と、平和と正義をもたらすという自身の使命を重ね合わせ、ピントゥリッキオにこの聖人を描かせたのであった。
正面向かって左側の壁の様子。
ここに描かれるのは、聖バルバラの受難(左側の絵)。
こちらは正面向かって右側の壁の様子。
次の写真の中央より少し上の部分にある八角形の絵は、古代エジプトのメンフィスで崇拝された神聖な牛アピスを描いたものである。
また左側のアーチ状の絵は、隠者パウルを描いたもの(左側の絵)。
天井や壁の上部には、漆喰によるレリーフが施されており、絢爛豪華な印象を受ける。
アーチ状の天井の中心部には、ボルジア家の家紋のレリーフがあり、金と青の対比が見事な天井である。
窓側の壁上部に描かれるのは聖セバスティアヌスの受難(Martyrdom of Saint Sebastian)。
左右のそれぞれの通路の方にカメラを向けて写した様子。
こちらの壁上部に描かれているのは、聖母マリアの訪問。
青と白の床のタイル。
出窓の壁にも精密なフレスコ画が描かれている。
ボルジアの間の中でも特に有名なこの正面のフレスコ画には、聖カタリナが50人の賢者たちと議論し、それを論破する場面が描かれている。
描かれる人物たちは、アレクサンデル6世の時代の実在の人物たちがモデルとなったと言われている。
まず中央より少し左の位置にいる緩やかな金髪でほっそりとした女性は、聖カタリナとして描かれたアレクサンデル6世の娘ルクレツィア・ボルジア(Lucrezia Borgia)。
玉座に座るマクシミヌス・ダイア(Gaius Valerius Galerius Maximinus;270-313/ ローマ皇帝 在位 308-313)は、アレクサンデル6世の息子でありルクレツィアの兄のチェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)。
皇帝の足元には、カタリナが論破したのか、本が散らばっていることにも注目。
白いターバンを巻いた男性は、スルタン・バヤジット2世の弟でありながらも、ヴァチカンに人質として滞在していたジェム王子。
そして玉座の奥でコンパスを持つ男性はこの絵を描いたピントゥリッキオと建築家のジュリアーノ・ダ・サンガッロ (Giuliano da Sangallo)である。
よく見るとカタリナ(ルクレツィア)と皇帝(チェーザレ)の被っている王冠および皇帝の座っている椅子はレリーフとなっている。
ルネサンス期の衣装を身につけたカタリナは当時の女性のように髪をゆいあげておらず、男性の服装はトルコ風なものが目立つ。
色鮮やかな人々の衣装に所々使われる金、それでいて作品には奥行きがあり、カタリナの足元には草花が咲いている。
豪奢と可憐さ、不思議な魅力がある絵である。
5. 奥義の間(Room of Mysteries)
教皇の私室として使われていた奥義の間(Room of Mysteries)には、受胎告知、キリスト誕生、東方三博士の礼拝、キリストの復活、キリストの昇天、精霊降臨、聖母マリアの被昇天というように聖母マリアとキリストの生涯が描かれている。
こちらの部屋がピントゥリッキオが手がけた最後の部屋であり、ここにアレクサンデル6世のポートレイトも描かれている。
左から聖母マリアの昇天、受胎告知、キリストの誕生。
天井アーチ部分にはレリーフの装飾が施されている上に、様々な聖人が描かれている。
受胎告知とキリストの誕生を正面から写した様子。
こちらは精霊降臨と聖母マリアの被昇天を正面から写した様子。
受胎告知とその下の壁を写したカット、壁には騙し絵のように窓が描かれている上に精密な幾何学模様が描き込まれている。
特にこのキリストの復活(Resurrection)は、ピントゥリッキオの傑作と言われている。
ピントゥリッキオは、その師匠のペルジーノの作品に影響を受けてこの作品を制作した。
ズームの写真を写しておらず見にくいのだが、左端で手を合わせる黄金の衣を着た人物がアレクサンデル6世のポートレイトである。
キリストを前に膝をつくアレクサンデル6世は、この奇跡を目撃した人物として描かれている。
またこの部屋の最後の修復は、2006年に完了しており、ピントゥリッキオの生み出した鮮やかな色合いを今に伝えている。
6. ローマ教皇の間(Room of Pontiffs)
奥義の間までがボルジアの間であり、こちらの部屋はボルジアの間には入らないのだが、隣合った部屋として順路に沿って鑑賞したため、そのまま紹介を続ける。
この部屋は、元は祝宴や教皇枢密会議の場として使われていたものであり、教皇ニコラウス3世(Nicholas III;在位 1277-80)によって建てられた部分に位置している。
13世紀後半に作られたこの部屋の屋根は、1500年の嵐によって崩壊しており、その様子を式部官ブルカルド(Johannes Burckhard)は詳細に記録している。
その時、アレクサンデル6世はこの部屋に在室していたため、この部屋の悲惨な状況を見て人々は、もはやアレクサンデル6世は生きてはいないであろうと悟りかけた。
ところが、この強運な教皇は、梁の下になったおかげで奇跡的に傷一つ負うことなく、嵐を生き延びたのである。
その後、レオ10世(Leo X;在位 1513-21)の時代になって、この部屋は、フレスコや漆喰などが施され修復された。
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例えば教科書や本などでずっと前から目にしているのに、実際に見たことがないという作品は多数あるのではないであろうか。
今回のボルジアの間が、筆者にとってまさにその状況であり、今回初めて実物を目にした。
ずっと知っているのに見ることができなかったという作品たち、感動もひとしおでついつい部屋に長居してしまったのであった。
ヴァチカン美術館(Musei Vaticani)
住所:00120 Città del Vaticano
開館時間:8:30-16:30
入場料:17ユーロ(一般料金)、8ユーロ(割引料金)
公式ホームページ:museivaticani.va
参考:ヴァチカン美術館公式サイト→★
(写真・文責:増永菜生 @nao_masunaga)
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