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【中編】 『ガブリエル・シャネル、モードのマニフェスト』展:パリ・ガリエラ美術館にて開催、パリ初のシャネルの特別展

前回の「【前編】『ガブリエル・シャネル、モードのマニフェスト』展」についてのnoteに引き続き、展示を紹介していきたい。



1. 優美と洗練(Légèreté et Raffinement)

人々が「狂乱の20年代」から徐々に目を覚ましつつあった1930年代、すでに中年に差し掛かったガブリエル・シャネルは、着実にファッションデザイナーとしての功績と名声を積み上げていっていた。

そこにいるのは、哀れな修道院育ちの踊り子ではなく、毅然とした貴婦人、いや女男爵とでも言ったほうがいいであろうか。

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そんな1930年代初頭、ガブリエルは、ハリウッド映画作品の衣装の制作といった新しい仕事を行なったほか、新たな恋人との逢瀬の時間も忘れてはいなかった。

1934年、ガブリエルは、オテル・リッツに移り住み、ここが彼女の終の住処となったのであった。

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(Dress, Spring-Summer 1930, white broderie anglaise)

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1936年、フランスの総選挙で人民戦線派が圧勝すると、その流れを受けて、国内の労働者たちは自らの権利を主張して立ち上がった。

シャネルの従業員も例外にもれずストライキを起こしたため、ガブリエルはその対応に追われた。

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(左:Evening Dress, Autumn-Winter 1933-34, ivory silk lace with metallic gold thread, rhinestones)

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(Fashion Illustration, Christian Bérard, Autumn-Winter 1937-38, Watercolour and Indian ink on paper, Paris, Palais Gallier, gift of Antonio Cánovas del Castillo)


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そして1939年に第二次世界大戦が勃発すると、ガブリエルは、香水とアクセサリー部門以外のシャネルの店を全て閉めた。

以降、ガブリエルは、1954年に至るまで15年間も主だった活動を休止した。

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(Evening dress, Autumn-Winter 1937-38, silk velvet, lace insets, red silk tulle and taffeta)



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(右:Dress, Spring-Summer 1930, pale green silk tulle)

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第二次世界大戦中、フランスを占領したナチス・ドイツは、ガブリエルの住処であったオテル・リッツも接収し、ガブリエルはカンボン通りの小さな部屋に移されることとなった。

またガブリエルは、戦時中にドイツ人将校と関係を持ったとして、連合国軍(ドイツ、イタリア、日本などの枢軸国と敵対した連合軍)から疑いをかけられた。

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(右:Dress, 1923, figured black wool with silver thread, black silk pongee)



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(左:Cape, Spring-Summer 1925, black silk crêpe, black rooster feathers/ 右:Cape, Spring-Summer 1925, ivory silk crêpe, white rooster feathers)

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終戦後、ガブリエルはスイスへと亡命し、1954年にデザイナーとして復帰するまで表舞台から身を引くこととなった。



2. 慎みと豪奢(La mesure et l'Excès)

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白と黒の対比、繊細なレースの使い方、それでいてどことなくマスキュリンなシルエット。

このシャネル・スタイルの典型とも言えるアンサンブルの持ち主は、パリ生まれのファッションエディター・ダイアナ・ヴリーランド(Diana Vreeland;1903-1989)であった。

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(Ensemble worn by Diana Vreeland, Autumn-Winter 1937-38, Tulle Embroidered with black sequins, Ivory chiffon ivory silk lace, mother-of-pearl Londo, Victoria and Albert Museum, Gift from Madame Dianna Vrelland)

『ハーパス・バザー』および本国版『ヴォーグ』のエディターおよび編集長、そしてメトロポリタン美術館のコンサルタントを務めたダイアナは、シャネルの熱心な顧客の一人であった。

「今日、私はシャネルを着ている」、大都会で働く女性には、そんなエレガンスとパワーが必要なのであろう。



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(左:Evening dress, Autumn-Winter 1929-30, blue silk tulle embroidered with fancy blue sequins/ 右:Evening dress, Autumn-Winter 1928-39, midnight blue silk tulle embroidered with midnight blue sequins)


時にガブリエルは、素材の表面を覆ってしまうようなテクニックを好んだ。

これらのショート丈ドレスのシルク地には、びっしりとガラスのビーズが縫い付けられており、それはまるで新しく生まれた何かの生地のようである。

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(左:Short evening dress, 1927, black silk crêpe embroidered with white glass beads/ 中央:Short evening dress, Autunm-Winter 1927-28, blue silk crêpe embroidered with blue glass beads)



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(左:Evening dress, Spring-Summer 1927, ivory silk fringing and crêpe/ 右:Evening dress, Autumn-Winter 1926-27, midnight blue crêpe georgette, silk fringing dyed in graduating shades of blue)



これらのドレスが製作された1927年、チャールズ・リンドバーグ(Charles  Lindbergh;1902-1974)が、プロペラ機によるニューヨーク・パリ間の、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功するなど、誰しもが繁栄の1920年代を信じて疑わなかった。

(最もリンドバーグがパリ上空に到着した時に「翼よ、あれがパリの灯だ!」と叫んだという台詞は脚色だとされているが...)

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1920年代終わりのパリの社交界、ありとあらゆる遊びを尽くした紳士淑女たちの目を引くには、美しいドレスだけでは十分になかったに違いない。

シャネルのドレスのようなスマートを着こなせるだけの、姿勢、心持ち、眼差し、知性、そして生きるための覚悟を持った女性こそ、人々の心に最後まで残ったのではないかなと想像した。

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3. ダイアモンド・ジュエリー(《Bijoux de Diamants》)

1932年11月7日から19日までの間、ガブリエル・シャネル個人のパリ市内のアパルトマンにて、「ダイアモンド・ジュエリー」展(Bijoux de Diamants)と名付けられたジュエリーコレクションが展示された。

ダイアモンド組合によって宣伝を頼まれたガブリエルが構成したこのジュエリー・コレクション、フランス内外のメディアは、並ならぬ関心を注いだ。

なおこちらの展示では、従来のようなショーケースの中にジュエリーを並べるという手法は取られなかった。

その代わりに、ジュエリーで着飾ったいくつものマネキンの胸像が置かれた。

それは実際に女性が身につけているのと近い姿でジュエリーを展示するというガブリエルの意図でもあった。


こちらは、ダイアモンド・ジュエリーについて書かれたジャン・コクトー (Jean Cocteau ;1889-1963)のマニュスクリプトである。

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(Manuscript of the text written for Bijoux de Diamants, Jean Cocteau, 1932, Paper, Bibliotéque Historique de la Ville de Paris)

小説家、詩人、劇作家などあまりにも多くの顔を持ち、「芸術のデパート」と呼ばれたジャン・コクトーは、ガブリエルの良き友人の一人であった。

ジャン・コクトーは、セルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ団、バレエ・リュスの公演『パラード』(Parade, 1917)を企画しており、その初演の招待客にガブリエルがいたのであった。


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また入場料は慈善団体に寄付されたというこのイベントは、チャリティーとしても、ジャーナリストの好奇心をかき立て、世間の注目を集めた。

このコレクションが発表された1932年とは、世界中の人々が世界恐慌の影響に苦しんでいた時期でもある。

そのような不景気な時期に、なぜ高価なジュエリーが賞賛を浴びたのであろうか。

それは、真のジュエリーは、一夜にしてその価値が無になることはないからと考えられる。

当時のフランスでは失業率はますます高まり、ジュエリーやファッションの部門で働く労働者たちも大きな打撃を受けていた。

ガブリエルは、そのようなジュエリー業界に再び活気づけるためにも、自身の邸宅を使って大々的なコレクションを展示したのであった。

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(Comète Brooch, Bijoux de Diamants Collection, 1932, Platinum, 28 Antique-cut Diamonds Patrimoine de Chanel)

なおこのコレクションは、ロンドン、そしてローマに場所を移した後も大盛況であったとされている。



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ガブリエルが徐々にその活動を縮小していった頃と前後して、フランスは、1940年から1944年に至るまでナチス・ドイツの占領下に置かれた。

街には反体制的な人物を検挙するために、ゲシュタポの手先が目を光らせ、またフランス国内のユダヤ人も迫害された。

レジスタンスは脈々と活動を続けていたものの、恐怖が街を支配し、人々は暗澹たる気持ちであったことは想像にかたくない。

戦時中、そんなナチスと祖国に対して、どっちつかずの態度を取ったガブリエル。

彼女が1939年にデザイナーとしての活動を休止し、再び本格的に始動するようになる1954年までの15年間、彼女にはどのような葛藤があったのであろうか。

また世間はどれほどまでに彼女を批判、あるいは同情したのであろうか。

今回までのnoteでは、デザイナー・ガブリエルが誕生した1910年代から1939年までの作品を見ていったが、次回からは戦後のシャネルの作品を見ていくことにする。

乞うご期待!

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『ガブリエル・シャネル。モードのマニュフェスト』(Gabrielle Chanel:Manifeste de mode)

会期:2021年5月19日から7月18日まで

会場:Palais Galliera, Musée de la ville de Paris

住所:10 avenue Pierre 1er de Serbie, Paris 16e, 75116 Paris, France


開館時間:10:00-18:00(木・金曜日は21:00まで)

休館日:月曜日

入場料:14ユーロ(一般)、12ユーロ(割引料金)

公式サイト:palaisgalliera.paris


(文責・写真:増永菜生 @nao_masunaga


参考:

「1932 Collection」『Chanel公式ホームページ』(2021年11月5日最終アクセス)

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