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イヴ・サンローラン美術館(Musée Yves Saint Laurent Paris): パリのサンローラン美術館にて開催、特別展「東方の夢」(L’Asie Rêvée ; Dreams of the Orient)

1. モードの帝王イヴ・サンローランの美術館

2019年1月、筆者は、パリのイヴ・サンローラン美術館(Musée Yves Saint Laurent Paris)を訪問した。

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今回のnoteは、その時の写真をもとに書いていく。

パリには他にもシャネルなど数々のファッションデザイナーゆかりの美術館がある。

限りなく優雅で艶かしく美しいサンローランの服。

その歴史を知りたくてサンローラン美術館を訪問したのであった。


2. 特別展「東方の夢」(L’Asie Rêvée):中国/ インド

2018年10月2日から2019年1月27日まで、イヴ・サンローラン美術館(Musée Yves Saint Laurent Paris; 以下、YSL美術館と略記)にて、主に中国、インド、日本といったアジアをテーマにした特別展「東方の夢」(L’Asie Rêvée; Dreams of the Orient)が開催された。

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実は、YSL美術館にて、特別展が開催されるのは、この企画が初めて。

アジアは、常にヨーロッパのアーティストたちを魅了してきた。

その例に漏れず、サンローランは、中国、インド、日本の3つの国の土着の文化を探求することにとりつかれ、伝統衣装のアレンジを生み出すために、クリシェ(ありきたりのもの)を変えようとした。

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彼にとってアジアとは、「異国風」(exoticism)なものを呼び起こし、創作活動にとって特別な役割を果たすもの。



今回は、美術館やプラベートコレクションから提供された衣装が展示。

最初は、中国のブース”La Chine Impériale”。

サンローランは、A/W 1977に、中国の歴史、文化、芸術に基づいたコレクションを発表。

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シルエットは、漢民族の女性が着用した中国の伝統衣装に特徴的な緩やかなものであった。

しかしながらサンローランは、衣服のフレアのないカット、ボリューム、ワイドスリーブのみを、伝統衣装から取り入れ、技術は西洋のパターンに習った。

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金銀に飾られたチャイナボタン、円錐状の帽子、吉兆の色としての赤のシルクなど、中国のモチーフは細部に宿っていた。

サンローランの京劇からこれらの着想を得たという。

またサンローランは、繰り返し、極東の花のモチーフを使った。

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花は、自然の儚さを体現しており、それは、老荘思想(無為自然の哲学)を繊細に表現している。

2番目に、インドのブース。

1962 S/S、1969 A/W、1982 S/Sと、サンローランは、伝統的なインドの皇帝、マハラジャ、女性の衣装から着想を得て、コレクションを発表。

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シフォンから作られた薄く美しいこの衣服は、体のラインを露わにすることなく、身体美を表している。

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サンローランは、刺繍、アップリケ、金のコーチングといった細部にこだわった。

また彼は、宝石職人GoossensとScemamaと、コラボレーションし、煌びやかな世界を体現。

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3. オピウム(OPIUM):鮮烈なレビューを果たした香水

3番目は、サンローランが東方から着想を得て作った香水OPIUMのブース。

1977年、チャイニーズコレクションの発表からわずか数週間後、サンローランは、新しい香水OPIUMを開発することに。

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ベルガモット、マンダリン、オレンジ、シナモン、ナツメグ、クローブなどが調合。

スパイシーで重厚ながらも、ラストの香りは軽やか。

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またスローガン”OPIUM, for those who are addicted to Yves Saint Laurent”(サンローラン中毒の人のためのオピウム)は、センセーショナルなキャッチコピーだった。

ところが、OPIUMは、アメリカでは1978年9月までは販売禁止であった。

American Coalition Against Opium and Drugと中国系アメリカ企業が、反Opium運動に乗り出したからであった。

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それもそのはず、OPIUMとは、阿片のこと。

阿片戦争を想起させるため、中国が黙っているはずがない。 (※阿片戦争:1840-42年、茶などアジア商品の輸入超過・英国からの銀流失に悩んだ英国が植民地のインドから中国へ阿片を密輸し、中国と英国の戦争に発展。)

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結果的に、OPIUMは成功を収めた。

OPIUMは、2019年だったら発表できない香水だったかもしれない。

また、OPIUM のボトルについて面白い逸話が。

日本の印籠をモデルにしたボトルは、ピエール・ディナン(Pierre Dinando)が考案。

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当初彼は、それをKENZO のところに持っていった。

ところがKENZO は、”It’s too Japanese, it’ll never work”(日本過ぎてこれは使えない)と却下。

そのボトルをサンローランに持って行ったところ、採用されたのであった。

海外で売り出そうとする日本人にとって、日本らしさとは、努力して脱ぎ捨てていくものであったからかもしれない。


4. サンローランと日本

4番目に、日本”Le Japon”のブース。

サンローランは、何度も日本を訪れた(中でも1963年と75年が有名)。

彼の作る「着物」は、日本のスピリットを保ちながらも、体に無理なく動かせる緩やかなラインを持っていた。

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戦後から約20年、YSLが訪れた1963年の日本は「過去と現在の結婚」を体現していた。

伝統的な着物にとりつかれた彼は、1994 A/Wコレクションを発表した。

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それは、彼が初めて日本を訪れてから30年も経ってからのことであった。


5. サンローランとピエール・ベルジェ

また館内には常設展として、サンローランのスタジオが再現されている。

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サンローランのスタジオは、5 avenue Marceau に、30年近くも同じ場所にあった。

輝きと静寂の対比、鏡の壁、壁一面の資料、これはサンローランの創作にとって必要なもの。

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サンローランは、まずこの鏡でのモデルの写りを研究。

2つの架台式テーブルには、彼のお気に入り、お土産、鉛筆が常にあった。

イヴ・サンローランをビジネスでも私生活でも支えたのは、パートナーのピエール・ベルジェ(Pierre Berge)であった。

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1958年に出会ったピエールとサンローラン。

以降、ブランドの設立など2人は成功を収めていく。

2004年にはピエール・ベルジェ=イヴ・サンローラン財団を設立。

イヴ・サンローラン美術館は、財団設立から計画されていた。


ピエール・ベルジュは、2008年にサンローランが死去してからも、財団のために奔走したが、2017年9月8日にこの世を去った。

美術館が公開されたのは、その死からわずか3週間後、2017年9月28日であった。


なお、2014年にピエール・ニネ主演の映画『イヴ・サンローラン』(Yves Saint Laurent)

でも、サンローランとピエールの関係が描かれている。

この映画にもアトリエのシーンが登場するが、まさに美術館で見た再現アトリエそのものであった。

ファッションニュースで見るコレクションルックも、デザイナーそのものの人生を知るともっと面白くなる。

イヴ・サンローランは、すでにこの世を去っているが、そんなサンローランのスピリットをこのメゾンは脈々と受け継いでいるのである。


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イヴ・サンローラン美術館(Musée Yves Saint Laurent Paris)

住所:5 avenue Marceau, 75116, Paris, France +33 01 44 31 64 00

開館時間:11:00-18:00(火曜から日曜まで)、

※最終入館は17:15まで、金曜日は21:00まで開館

休館日:月曜日、1/1、5/1、12/25

※12/24と12/31は、16:30まで

公式ホームページ:museeyslparis.com

入場料:一般 10ユーロ  割引 7ユーロ(学生、教員、10-18歳)  無料 (10歳未満、美術史・服飾史専攻の学生、失業者、障害者と付添人、記者など)
※要証明書

(文責・写真:増永菜生 @nao_masunaga



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