パリのアズディン・アライアギャラリーの特別展「ALAÏA / GRÈS. AU-DELÀ DE LA MODE」:アライアとマダム・グレ、ドレスを「彫刻」した二人の静かな対話
1. ドレスコレクターとしてのアズディン・アライアと孤高のクチュリエ マダム・グレ
1956年、21歳でパリにやってきたチュニジア系フランス人アズディン・アライア(Azzedine Alaïa;1935-2017)。
そんな彼は、1982年に初のプレタポルテ・コレクションを発表し、1990年代には「こだわりの王」(King of Cling)として脚光を浴びた。
女優グレタ・ガルボ(Greta Garbo;1905- 1990)、小説家ルイーズ・ド・ヴィルモラン(Louise de Vilmorin;1902-1969)、ゴルファーのセシル・ド・(Cécile de Rothschild;1913-1995)、歌手ティナ・ターナー(Tina Turner;1939-2023)、そしてグレイス・ジョーンズ(Grace Jones;1948-)も彼のデザインを好み、個人的にドレスをオーダーしていた。
まるで彫刻家のように身体の形を切り出し、ボディラインを美しく見せる服を作るアライアは、熱心なオートクチュールのコレクターでもあった。
アライアは、1968年にバレンシアガのアーカイブを購入したことをきっかけに、オートクチュールのアーカイブを購入することに心血を注いでおり、その15,000点以上にも上るコレクションは、まさに19世紀と20世紀のファッションの歴史を反映するものであった。
ところがこのコレクターとしてのアライアの顔は、2017年11月に彼が亡くなってから初めて明らかになったものである。
アライアが所蔵する19世紀と20世紀のオートクチュールのアーカイブは、ガリエラ宮と装飾美術館に次いでフランスで3番目の質と量のものであるとも言われるほどである。
アライアとは40年来の親友であり、アズディン・アライア財団の創設者かつ、ミラノのコンセプトストア 10 Corso Como(ディエーチ・コルソ・コモ)のオーナーでもあるカルラ・ソッツァーニ(Carla Sozzani)は、次のようなコメントを出している:
「彼(アライア)はいつも買って、買って、買いまくっていました。1968年にバレンシアガの全アーカイブを購入したのが始まりです」
その中には、1930年代から1980年代後半に引退するまで活躍したフランスのクチュリエ、マダム・グレ(Madame Grès;1903-1993) の作品700点も含まれている。
パリのアズディン・アライア財団(Fondation Azzedin Alaïa)のギャラリーで開催中の本展「ALAÏA / GRÈS. AU-DELÀ DE LA MODE」(アライアとグレ、ファッションを超えて)は、そんなアライアがコレクションしたマダム・グレの作品をもとに、二人のデザイナーが追求したカッティングやドレープ、プリーツ、ファブリックの持つ可能性とシンプルさを考察するものである。
ここでマダム・グレの経歴についても簡単に触れておこう。
マダム・グレ(Madame Grès;1903-1993)こと、本名ジェルメーヌ・エミリ・クレブ(Germaine Emilie Krebs)は、パリのブルジョワ階級に生まれながらも彫刻家を志し、家を飛び出した。
そんなグレは、生活費を得るためにトワルを作成するうちに、布の「彫刻家」としてファッションの世界に進出していくことになる。
1933年、彼女はジュリー(別名アリックス)・バートン(Julie Barton)とパートナーシップを結び、パリのミロメニル通り(Rue de Miromesnil)にファッション・ハウスをオープンした。
その後、メゾン・アリックス(Maison Alix)と改名したメゾンは、1934年にはフォーブール・サン=トノレ通り(Rue du Faubourg-Saint-Honoré)に移転した。
そこでは、当時は先進的な素材だったシルクジャージーで作られた、古代ギリシアを彷彿とさせながらも現代の生活にもマッチする「ドレープドレス」ですぐに大成功を収めた。
そんなグレは、デッサンを使わずに、身体に直接布地をまとわせて裁断する、まるで彫刻家が石を削り出していくような独自の方法でエレガントかつ、極めて緻密に構築されたドレスを発表し続けた。
1942年には、夫セルジュの名前の一部を使った「グレ」という名前のデザインハウスをペ通り1番に設立し、様々な著名人を顧客としてオートクチュールの服を作り続けた。
その中には、ウィンザー公爵エドワードの妻ウォリス・シンプソン(Wallis Simpson, The Duchess of Windsor;1896-1986)、女優マレーネ・ディートリヒ(Marlene Dietrich;1901-1992)、ジャクリーン・リー・ブーヴィエ・ケネディ・オナシス(Jacqueline Lee Bouvier Kennedy Onassis;1929-1994)といった20世紀の歴史に名を刻んだ女性たちもいた。
マダム・グレは、目まぐるしく移り変わるファッションの流行や気まぐれを無視し、1987年までそこで時代を超越したコレクションを発表し続けた。
参考:「Grès Paris」(2023年11月20日最終閲覧)
マダム・グレとアズディン・アライア、この二人が実際に交流したという記録はないものの、多くの点で共通点を持っていた。
二人とも独学で服を作り始め、ファッションカレンダーを無視し、自身の作品ができたときだけコレクションを発表した。
また二人とも彫刻を学んだことがある上に、基本は黒や白のモノクロームを好み、時にはボルドーやミッドナイト、ウルトラマリン、青磁といった鮮やかな色を取り入れた。
そんな二人は、無駄な装飾を好まずシンプルなフォルムを好んだが、実はそのシンプルさは極めて複雑なディティールによって構成されていた。
プリーツ、ドレープ、滑らかな素材… 二人がこれらを駆使すると、砂時計のような官能的な女性のプロポーションが出来上がる。
マダム・グレもアライアも、ひとたびアイディアが浮かんだら、それを形にするために徹底的に追求したデザイナーであった。
次の章からは実際に二人の作品を見ていくこととしよう。
2. クチュリエと彫刻家(Couturiers sculpteurs)
前述の通り、アズディン・アライアもマダム・グレも、彫刻家を志しながらも結果的にデザイナーになったという共通点がある。
比較的裕福な家庭に生まれたマダム・グレは、彫刻を学ぼうとしたが、両親からの反対を受けた後、3カ月で裁断と縫製の初歩を学び、デザイナーとしての活動を本格的に始めた。
一方、アライアは、チュニスの美術学校の彫刻科に在籍していたものの、同時に裁縫にも興味を示し、その非凡な才能を発揮するようになる。
彫刻と服のデザイン、一見かけ離れているように思われるジャンルにグレとアライアはどのような可能性と創造性を見ていたのであろうか。
このマダム・グレの1952年春夏のオートクチュールのガウンは、まるで型にハマっているかのようであり、余計な装飾を許さない、一つの彫刻作品のようにも思われる。
またグレとアライアは、共に女性の身体からインスピレーションを得てドレスを作っていた。
マダム・グレは、身体の動きを妨げない服を作ることを心がけただけではなく、マットな素材や透明感のある素材を巧みに使うことで官能性も表現した。
一方で、アズディン・アライアは常にモデルや顧客など、身近な女性の身体からインスピレーションを得ており「生きているモデルがいなければ、ドレスの制作に取りかかることはできない」と言うほどであった。
アライアも不透明な生地とシフォンといった様々な素材を組み合わせることで、体の輪郭を装飾的に強調する、芸術的なバランス保つ服を作った。
3. セレモニードレス(La cérémonie des robes)
アズディン・アライアは、ファッションウィークの慌ただしいカレンダーから距離を置き、自分のアイデアが成熟したと感じた時に、人々に自分の作品を見せるというスタイルを貫いた。
一方で、マダム・グレは、ユニークで完璧な作品を創作することを第一とし、世の中のファッションのトレンドを追うことにはこだわらなかった。
毎回ショーが始まる前のパリ2区のペ通り1番地にあったマダム・グレのショールームは、まるで今から劇場でオペラが上演されるかのように、恭しくその扉を閉じており、招待客を焦らしていた。
グレのドレスを身につけたモデルたちは、気取ることなく、静かに前に歩み出て、その圧倒的な美しさで人々を圧倒した。
4.時代を超越するクリエーション(Des créations intemporelles)
マダム・グレは、自身のブランドの名前を決めるにあたり、色のバリエーションが無限にある堆積岩を意味する砂岩(グレ/ Grès)を採用した。
また先述の通り、「Grès」は、彼女の夫セルジュの名前の一部でもある。
マダム・グレは、真っ白な自身のショールームをアテネの神殿のように見せようと工夫を凝らした。
白、アイボリー、ベージュのジャージー素材で作られたドレスは、まさにオリンポスの女神たちが身にまとう衣のように神々しい。
アズディン・アライアも、気まぐれなファッションのトレンドに打ち勝つべく、揺るがないオリジナルティを確立すべく、浮き彫りの彫刻のようなドレスを作ろうとした。
極めて精密なテクニックを駆使し、アライアは、グレの作品と同じように時代を超越するデザインを生み出した。
5. テクニックの考案と習得(Inventer et maîtriser la technique)
「マネキンを作る、それは粘土を扱うようなもの。型にはめ、組み立て、分解し、縫い、縫い目を解く。 自分の手を動かして、限りない試行錯誤を繰り返す中で、私はテーラリングについて学び、その神秘の一端を理解したのであった」。
このように述べるアズディン・アライアは、裁断と縫製の技術を学び、ファッションの世界に足を踏み入れた。
一方で、マダム・グレは、服作りという職業について何も知らないままにファッションの世界に身を投じたが故に、純粋に好奇心を追求しつつ、他の人が挑戦しないようなことに挑戦することができた。
また彫刻の知識があったからこそ、彼女は素材に直接働きかけ、独自の技法を編み出すことができた。
アライアとグレのドレスは、表向きは非常にシンプルだが、一部も違わぬように計算し尽くされたかのようにバランス感覚に優れており、絶妙なボリュームがあるものである。
6.生地の変態(La métamorphose des tissus)
マダム・グレはシルクジャージを、アライアはしなやかなニットを使って、生地の感触を確かめつつ、ドレスに輪郭を与えようとした。
二人は、漆黒、ブロンズ、グレーグリーン、ダークレッドといった深みのある色味のベルベッドを使い、そのフォルムに重みを加え、全体のバランスをとった。
マダム・グレは、歴史に裏付けられたフランス文化の静謐さと激情的な前衛思想という相反する二つの性質を胸のうちに抱えつつ、製作を続けた。
そんなマダム・グレは、三宅一生や山本耀司といった日本のデザイナーにも影響を与えており、特に山本耀司は、マダム・グレをモチーフにしたコレクションも発表している。
移ろいやすいファッション業界の流れにも動じないマダム・グレは、黒い重厚なドレスなどを通じて、自分のスタイルを主張し続けた。
7. クチュリエールとクチュリエ(Couturière et couturier)
マダム・グレは、自らを「良き裁縫士」(bonne couturière)と表現した。
彼女にとってクチュリエとは、技術を完璧に学んだ上で、想像力をかき立てながら確実な手仕事をする人のことであった。
マドレーヌ・ヴィオネ(Madeleine Vionnet)、クリストバル・バレンシアガ(Cristóbal Balenciaga)、アズディン・アライア(Azzedine Alaïa)などは、極めて精密な仕立てと、目には見えないほどの縫い目で名声を築いたという点で、このマダム・グレの言葉を忠実に守った数少ないファッションデザイナーかもしれまい。
アライアは、マダム・グレと同じように、夜な夜なアトリエで一人、ジャケットやドレスを手作業で作り上げた。
現在、デザイナーやアーティスト、クリエイティブディレクターなどいわゆる「服を作る人」を指す言葉は多数あるが、アライアが好んだのは「クチュリエ」、文字通り「縫う人」という言葉であった。
さて、この丸窓から見えるのは、アライアのアトリエである。
こちらは2017年にアライアが亡くなってから、一着の衣服も、スケッチも、道具も、ピンも、針も全く触れられることなくそのままになっている場所でもある。
1987年以来、アライアはこのアトリエで、ドレスを考案し、構想し、裁断してきたが、今は、白い埃と静寂に包まれている。
かつてミッドナイトブラックの制服に身を包んだアライアは、夕方から夜明けまで働き、その美しさで他を凌駕するドレスを生み出し続けた。
現在、秘密のベールを脱いだこのアトリエは、クチュリエのアイデアとイマジネーションの要塞として一般に公開されている。
おまけ:ブックショップとカフェ
展示ブースには、カフェとブックショップが併設している。
様々なファッション関係の写真集や展示会の図録など、その品揃えはかなり充実している。
筆者が訪れたのは閉館時間も近い時間だったので、この時はカフェは利用しなかったが、コーヒーだけならば割とお手頃な値段だったので本を読みながらゆっくりするのもおすすめである。
ALAÏA / GRÈS. AU-DELÀ DE LA MODE
会期:2023年9月11日から2024年1月24日まで
会場:Fondation Azzedine Alaïa
住所:18 Rue de la Verrerie, 75004 Paris, France
公式ホームページ:fondationazzedinealaia.org
・「グレとアライア、ふたりの布の彫刻家。モードを超えたドレス」『装苑』(2023年9月17日付記事)
・「「コルソ コモ」創業者が72歳の挑戦 パリに新たなギャラリー開き「文化的な貢献したい」『WWD JAPAN』(2019年11月11日付記事)
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