あなたの顔が見えたなら(3話)
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こんにちは。今日もここは気持ちのええ場所やねえ。
もうここを出て行く日決まったんやて。一週間後やっけ? そう。ほんまに寂しいなるなあ。え、遊びに来いって? 嬉しいこと言うてくれるやんか。でも、行かれへんと思う。
遠くまで行かれへんしな。
ところであなた、もうそろそろその包帯とってもええんちゃうの? もう先生はとってもええって言うてはるんやろ? うん? 勇気がないて?
まああなたの気持ちも分からんでもないけどな。ずっと慣れ親しんできた環境を変更するのって勇気いるわなあ。でもせっかくやのに、勿体ないんちゃうの? これからのこともあるしな。
でももし・・・・・・?
もし、見えへんまんまやったらどうしよう? って言いたいんか? そうかもせんけど、試してみんことには分からんやろ。
私が外したろか? 頼むって? 分かった。ほんなら後ろ向いて。
ええか、外すで。
※※※
早苗は緊張していた。ずっと目が見えない状況で過ごしてきたのだ、それが手術をして見えるようになるかもしれない。だがもし、見えないままだったら期待が大きいだけに、落胆もまた大きいだろう。
そう思う反面、元々見えなかったのだから、手術が失敗してても今までの生活に戻るだけなのだと自分に言い聞かせていたりもする。
「ええか。外すで」
「ちょっと待って。やっぱり怖い・・・・・・」
「あなたお母さんの顔が見てみたい言うてたな? 見てみとうないん?」
「どういうことですか?」
「あなたの目の前にお母さんがいてるのに・・・・・・」
「え?」
なんのことを言われているのか分からず、早苗は戸惑ったように眉間に皺を寄せる。
その表情を見た女は、早苗のことをさらに愛おしく思った。
「あなたと前にお母さんの顔つきが変わったて話してたやろ? 猫目やとかなんとか」
「ええ。それが・・・・・・」
「それが、私のこの顔やねん」
意味が分からなかった。ただただ自分にそっくりだったと言いたいのだろうか?
「ふふふ。困っとるようやね。あなたのお母さん、なんで顔つきが変わったんやと思う?」
「色々あって疲れていたからじゃ・・・・・・」
「ちゃうで」
言葉にからかうような響きが混じっていた。
「え、じゃあ・・・・・・?」
「ナニものかにとりつかれたんちゃうかって言うてたやろ?」
「それが私」
「え!」
「せやから、結果的にお母さんに会えるちゅうことや。どう、嬉しいやろ」
背後から女が早苗を抱きしめる。その手は確かに早苗の両肩に乗っかっているのに、物体としての重量は感じられなかった。
「早苗ちゃん」
耳元で女の声がした。女の吐く息が早苗の鼻腔に突き刺さる。あのときの黴臭いにおいがしていた。
「このにおい・・・、もしかしてあのとき私の部屋にいた女の人?」
「そうよ。におう? 時が止まった人のにおい・・・ふふふ。おばあちゃん流石ね」
またにおいがする。
「いや・・・」
「どうして嫌がるん? 柔らかい感じがするって言うてくれてたやん。あれって雛子さんより好きってことやろ」
「そんなこと・・・」
「だから、私がお母さんになってあげたんよ」
「え、じゃあ、もしかしてあなたがお母さんを殺したの?」
「そう。雛子さんだけやなくおばあちゃんも」
「どうしておばあちゃんまで?」
「だって邪魔やったから」
「邪魔・・・?」
「あのばばあは、私の存在を知ってたんやろな。せやから線香で邪魔してきよったんや。せやから殺した」
「そんなことで・・・?」
「私嬉しかってん。娘が帰ってきたようで。だってあなた私の娘とそっくりなんやもん。ここでずっと待ってて良かった」
重力を失っていた早苗の両肩の手が、急にずんと重くなった。
「ここで? もしかしてここで亡くなったの?」
「そうよ。私の娘はあなたと同じ、目の不自由な子やったわ。ほんのちょっとした段差やったの。でもそこに物が出しっぱなしになっとって、躓いて変な転び方してもうて・・・あっけなかったわ」
さらに手が重くなる。
「私、大阪から嫁いできてん。せやからこっちに知り合いもおらんでね。旦那もよその女んとこから帰ってこんようになってもうたし。寂しくて耐えられんかったんよ。ほんで首吊ってもうた」
「!」
「ねえ、私の娘になってくれるやんね。そしたら、あなたももうどこにも行かんですむやん。ずっとここで一緒に暮らそ」
女の手が早苗の首に絡まり、ぎゅっと首を絞めつける。
「嫌よ! あなたなんかお母さんじゃない!」
女の腕を掴んでふり払おうとするが、女の腕は早苗に絡みついたまま離れなかった。
「もう遅いってこと分かってないん? もうあなたは私だけのものなんやで」
「どういうこと?」
「どういうことか、手術して見えるようになったその目でしっかり確認したらええ」
首に巻き付いていた女の手が、早苗の首から離れ早苗の目に巻かれた包帯を外し始めた。
「やめて、私、なにも見たくない・・・」
「いや、あなたは見るんや」
頭を圧迫していたものが緩まっていく・・・・・・そんな感じがした。
包帯の下で早苗は俯きギュッと目を閉じていた。
「さあ、全部包帯取ったで。ゆっくり目を開けてみ」
俯いたままゆっくりと目を開けた。視界がぼやけている。何度か瞬きをすると、次第に視界がハッキリとしてきた。
見える!
自分の両手を見下ろす。今まで触れてはいたので、その形は想像していた通りだったが、思っていたより色が白かった。
「どうなん? 見えてるのん?」
頷く早苗。
「そしたらもっと周り見てみたら?」
言われるがまま早苗が顔を上げると、目の前の鏡に映る少女と目が合った。
「これが私の顏?」
鏡に顔を近づけてまじまじと自分の顏を確認する。目や鼻を触りながら、自分が想像していた自分の顏のパーツと同じかどうかを確認していた。
自分の顏を、想像していたより気弱そうな顔つきの女の子だと思った。
早苗の背後で微笑む女の顔が鏡に映っていた。
「私の顏見えとる? これがあなたのお母さんの顔やで」
鏡に映る女の顔は以前女が言っていた言葉から、早苗が想像した通りの顔だった。
「私・・・・・・」
「どない? 自分の顏見た感想は? かわいいやろ?」
「髪も綺麗やし」
まじまじと自分の顔を覗き込む。
早苗は自らの髪に触れた。長い間洗われていないかのように脂でべとべととしており、ところどころ固まっていた。
「ええにおいしてるしな」
そう言われて、早苗は自らのにおいを嗅ぐと、女から発せられている黴臭いにおいと同じにおいがしていた。
驚いた早苗が思わず鏡の中の女を見ると、女の長い髪もドロドロに固まっていた。
「あなたこの髪が気持ちいいって言うてくれてたもんなあ」
「そんな・・・・・・」
女から目をそらした早苗の目に、周りの光景が映った。
「ここは・・・どこなの?」
「どこって、あなたがいつもいた気持ちのいい場所やないの」
「ここが? ここに私・・・、ずっとここにいたの?」
早苗と女がいたのは早苗の家の浴室だった。
だがそこは、早苗が慣れ親しみ、想像していた浴室とは全くの別物であった。
浴槽にはいつから替えられていないのか、濁った水が満タンに張られ、黴のようなにおいがしていた。ずっと水を替えられていない水槽のようなどろっとした苔色の水だった。
洗い場にはゴミ袋や衣類、新聞紙などが足の踏み場もないほどに散乱していた。
「なんなのこれ! 私どうしちゃったの!」
「ここがあなたの気持ちのいい場所なんやろ?」
「違うわ!」
「そう言うてたやない。だからいつもここにおるって。綺麗好きのお母さんや厳しいおばあちゃんより、こんな場所や自分のほうが好きなんやろ?」
「そんなことない!」
早苗は女を振り切るようにして浴室を飛び出した。
「な・・・!」
廊下も足の踏み場もないほどのゴミや食器類、洋服などで埋め尽くされていた。
「あなた前に、廊下に色んなもんが落ちとった言うてたやろ。あれやったんあなたやで」
「私? そんなことしてない!」
「いいや、あなたよ。ここにあるもんも、あれもそれもどれもこれもみんなあなたがしたんよ」
「うそ・・・・・・」
「あなたが綺麗好きだったおかあさんやおばあちゃんを追い詰めたんや」
「私が?」
「そう。せやから私はあなたのために殺したん。あなたがそうしたいと思ってた通りにしたんや」
「そんなこと思ってない・・・」
「ほら、ここにあなたが好きやって言うてたクマのぬいぐるみも落ちてるで」
女が拾い上げたクマのぬいぐるみを見た早苗から、短い悲鳴が上がった。
もとの色が何色だったのかも分からないくらいにどろどろに汚れ、片方の目は無くなり、もう片方の目は取れかけていた。
「これを? ・・・私、ずっと持ってたの?」
「そうやで。これ私の娘が大事に持ってたやつや。それをあなたは気に入ってくれた。今までの人は気持ち悪い言うて捨てられてもうてたからな。あなたが初めてやったんよ。嬉しかったわあ」
「それは・・・見えてなかったから・・・・・・」
「そんなん関係あらへんで。手ざわりが気持ちええって言うてたやん。それが、証拠なんよ。あなたがこういうのん好きやっちゅう証拠なんよ。さあ、もうええやろ。私と一緒に行きましょう」
「どこへ?」
「あなたの気持ちのいい場所よ」
早苗の肩を抱き歩きだすと、早苗は反抗することもなく女に従って歩きだした。
浴室に戻ると「さあ、綺麗にしよなあ」と言いながら女は、早苗のパジャマのボタンを外し始めた。早苗はまるで魂でも抜かれてしまった人形かのようにされるがままだ。
女は全裸の早苗の身体を見て「綺麗やなあ」と感嘆の声を上げ、自らも裸になった。
「さあこれ持って」
女から手渡されたクマのぬいぐるみを大事そうに抱えた早苗は、女に促されるまま、ふらふらとした足取りで、どろどろの水が溜まった浴槽に身を沈めた。
まるでいい香りのする入溶剤でも入っているかのように、早苗は恍惚の表情を浮かべていた。
早苗の背後から女も浴槽に身を沈め、浴槽の水を早苗の髪に掛けながら優しく撫でた。
「どう、いい気持ちやろ?」
女が背後から早苗を抱きしめた。
「早苗、これからはお母さんが一緒におってあげるからね」
そのとき、どこからか黴臭いにおいとは別の香りがしてきた。虚ろな目をしていた早苗の表情が動いた。
この香りは・・・・・・。
雛子のお気に入りのお店でしか売っていない石鹸の香りがしている。そのことに気づいた早苗の目に光が戻った。
「お母さん・・・?」
「なあに?」
女が返事をしたが、
「あなたじゃない」
「えっ」
「あなたは私のお母さんなんかじゃない」
浴槽からガバッと立ち上がった早苗は、近くにあった歯ブラシを掴んだ。
「どうしたん?」
「あんたなんか、私のお母さんじゃない!」
歯ブラシを強く握りしめる早苗に、
「なにをする気なん? やめて」
「あんたの顏なんか見たくない。見たくないんだから!」
「早苗!」
「私の前から消えて!」
手にした歯ブラシの柄を勢いよく自分の目に挿した。
「きゃああっ!」
二人の悲鳴が浴室に響いた。
放り投げられ、床に転がったクマのぬいぐるみの目は完全に取れてしまっていた。
3-2
「ごめんなさい・・・・・・」
早苗の首を絞めながら雛子は泣いていた。
「見ないで・・・」
「え?」
「こんな私、見られたくないの。だから見ないで」
5
家の取り壊しが終わり、すっかり更地になった場所に早苗が立っていた。目に包帯を巻いた姿は痛々しかったが、なにかを吹っ切ったような清々しい表情だった。
更地の中を早苗は歩いていた。ここで育った早苗にとって、この場所には沢山の思い出がある。元々なにがあったかを確認するように歩いていた早苗の足が止まった。
そこは風呂場だった。あの忌まわしい出来事のあった場所。寒くもないのに早苗の腕には鳥肌がたっていた。
もう終わったこと。ここに戻って来ることはないだろう。色々な思いを断ち切って早苗は歩きだした。
早苗の歩みが止まった。早苗の鼻腔にあの黴臭いにおいがしたが、振り返ることなく早苗は歩いて行った。
4-1
「いや、死にたくない! まだ死にたくない!」
雛子は泣きながらそう訴えていたが、雛子の両手は言葉や表情とは正反対の動きをしていた。
椅子に乗り、天井から垂らされたロープに自らの首を入れようとするが、その力に抗うように雛子の両手は、ロープを拒んでいた。
「そんなことしても無駄やねん。はよ死ね」
それが魔法の呪文であったかのように、雛子の抗う力は失せ、ロープに首を入れた。
「いや、いや、いや! いや! 殺さないで! 私が死んだら早苗は独りぼっちになっちゃう。だから助けて・・・」
「もうええて」
「いやあ!」
雛子の悲鳴と共に、雛子の身体は見えない重力に引っ張られるように沈み込んだ。
「うぐぅ・・・」
喉を絞めつけられた雛子の最後の声であった。
「大丈夫、あんたがおらんでも早苗には私がおるから、ずっと一緒に。永遠にな・・・・・・」
完
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