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ヴィパッサナー瞑想に参加した感想

こんにちは。なおきです。
さゆりさんとふたりで海外や国内を巡る旅をしています。

以前つとめていた時に、たまたま見たブログで見つけた「ヴィパッサナー瞑想」。会社を辞めて旅に出る時に、2018年内に絶対に行きたいと思っていました。最近どんどん人気が出ているみたいで、男性はまだしも、女性の方は予約開始直後にキャンセル待ちになってしまうこともあるようです。僕たちは9月13日〜24日の日程で2人同時に参加することができました。

ヴィパッサナー瞑想の概要についてはこちら

なぜこの瞑想法に強く惹かれたのか、言葉ではうまく説明できません。普段、自分からどこかに行きたいとか、イベントに参加したいとか思うことが少ないので、「絶対に行きたい」と思うこと自体が自分にとっては不思議でした。
自分との向き合い方、感情をコントロールする手法。生きるための実践的な技術を知らずに欲していたのか。それとも何か大いなる存在の導きなのか。コース中のゴエンカ氏の説教に「あなた方がヴィパッサナー瞑想を知ることができたことはこれまで良い行いを積み重ねたからです」という言葉がありました。もしかしたら、そうなのかも、と考えると本当にありがたいお話です。

瞑想のコースが終わった際に他の参加者とも話しましたが、瞑想中に体験したことは本当に人によって違います。ここに書くことは僕の体験であり、同じ感覚は誰の中にも存在しないだろうし、皆さんが感じる感覚は僕には想像すらできません。この体験談は皆さんの参考になるどころか瞑想の邪魔になってしまうかもしれません。それでも、少しでも多くの人にこの瞑想法を知ってもらいたいなと思い、書かせていただきますね。ちょっとのお時間お付き合いください。

瞑想の感想の前に、少しこれまでの人生について書いておきます。

僕は小学校に通う間に3回転校しています。5年生から通った4つ目の小学校でいじめに遭い、中学ではその人間関係を持ち越したために、友人の数もそれなり。半分無意識に、人間関係を刷新するために県外の高専に進学を決めました。しかし、根本的に人付き合いのコツを知らなかった自分は、進学後も同じように人間関係に悩むことになります。
なんとか高専を乗り切り、就職活動は成功したものの、上司・後輩との衝突を重ねてしまいます。その反省と後悔を繰り返すたび、自尊心と他者に対する承認欲求が行動の指針になっていきました。どうすれば上司や先輩に褒められるか、後輩からいい先輩と言われるか。答えがない上に周囲に依存した判断基準は、23歳ごろから少しずつ自分の首を絞め始めます。25歳で会社を退職する頃には、向かいに座る先輩に送るメールですら、文面に問題ないか1時間以上悩むようになっていました。

転職は、自分の力で食べていきたいという体裁でベンチャーの地方創生プログラムに。しかし、未経験の教育分野、そして短期間で結果が求められ、どうすれば評価が得られるのかわからない状況で、悩みはさらに悪化しました。誰かに首を絞められているように喉が詰まり、肩は岩がのったように重くなりました。
病院にはかかっていませんが、軽い鬱状態だったと思っています。

そんな時、さゆりさんが旅に出よう、と言ってくれました。
辞めてもいいんだ。その考えだけで直径3cmくらいだった視野が、ぱーっと大きく明るく開けたのを覚えています。頭の中にあったもやもやが晴れた感じです。

そして6月に退職し、旅に出ました。しかし、自由になってからも発作のように自己嫌悪、イラつき、絶望感が現れることがあります。少しずつ良くなっているのは感じるので、リハビリのようなものと思ってのんびり付き合っています。

アーナーパーナ瞑想

それでは、ヴィパッサナーで得た経験について書いていきます。
10日間コースでは、はじめの3日半は「アーナーパーナ瞑想」と呼ばれる、呼吸をする鼻に意識を置く精神集中を行います。ヴィパッサナーを行うための準備段階と言えるでしょう。これまで深い瞑想をした経験のない僕にとっては、初日は座っているだけで妄想や回想で心があちこちに飛び回り、全く集中することができませんでした。面白いことに内容は日によって違い、それに伴って感情も大きく揺れ動いていました。

初日は過去の失敗した経験や、恥をかいた記憶、将来の予想や計画など多岐にわたる想像。
2日目は過去の回想が多く、記憶に対して苛立ちや怒りを強く感じました。あの時のアイツの言葉、偉そうなアイツが評価され、なんで俺があんな目に。とるに足らない記憶が心を揺さぶります。特に前職の同僚には強い怒りを感じていました。
3日目の想像は前日とはうってかわって将来に関わるポジティブなものが増えました。次の旅はどこに行こうか。将来はどんな家に住もうか。子どもができたらどうしようか。気分良く前向きな自分に気づいた頃には、少しずつ想像が減って瞑想に集中することができるようになってきました。

3日目までの講話は理論的・技術的な話が多い印象です。録音された音声にもかかわらず、心の移ろい、感情などを言い当てられて、自分が普通の一般的な存在なのだと思い知らされました。それでも少しずつ瞑想に集中することはできていたので、自分が「できるヤツ」であることに希望を持っていた気がします。

ヴィパッサナー瞑想

4日目の午後からはヴィパッサナー瞑想が始まります。
頭から始まり、体の各部の感覚をただ見つめ、観察し続けます。心地よい感覚、心地悪い感覚、あるいは感覚が感じられないところ。感覚は体の部位ごとに様々で、どれにも反応することなくひたすら観察を続けます。ゴエンカ氏の指導はひたすら同じ文言の繰り返し。この日は上手くいった感触がなく、自分の進歩のなさに少しがっかりしていました。

5日目・6日目
体の感覚を探るうちに、性的な記憶、映像が次から次へと現れてどんどんと性欲を掻き立てます。いてもたってもいられない状態に。我慢しながら瞑想を続けると、映像が現れた後、心臓のあたりに強い感覚が現れることに気づきました。重さとともに熱を帯びているような感覚。ふと、その感覚が性欲を短絡的に処理する欲求や感情を生んでいたことに気づきました。その時は自室のベッドに座って瞑想していたのですが、思わず飛び上がるほどの閃きでした。
これまでの人生で、例えばスマホの広告、あるいは露出の多い女性の姿を見て感じていた衝動が、さらに言えばその衝動に対して感じていた自己嫌悪と罪悪感までもが消滅すると知った時の感動と言ったら、本当に言葉にできないものです。自身の劣等性が自分の変えられない性質ではないと知った時、つまり自分は変われるんだと知った時、本当に、本当に嬉しかった。

7日目
前日とうってかわって、全く瞑想が進みませんでした。午後になって、ようやく前日の納得感を渇望していることに気づきました。渇望すると、手に入らない。そのことに気づいただけでも収穫は大きいと思いました。
夕方、アディッターナ(1時間同じ姿勢を保つ瞑想)で、少しつらい体勢で座ってしまい、右足の付け根が強く痛みました。その痛みを観察し続けた時、突然、何も感覚がなくなり、空中に浮遊している感覚が3秒ほど続きました。驚きとともにその感覚は消えてなくなり、その感覚への渇望だけが残りました。

8日目
衣擦れによる不快感との戦いでした。腹部や胸に服が擦れる感覚は昔から嫌いでしたが、感覚が鋭敏になり強くなったのだと思います。もともとへそを触るのが嫌いで、へそに起こる「感覚が生じるかもしれないという感覚」(きっと誰にも伝わらない)が本当に気持ち悪く、反応せずに観察するのは拷問のようでした。しかし、ある時スッと吸い込まれていくように消えていき、以降は不快感がかなり減りました。本当に不思議です。

9日目
肩がかなり重たく、引き攣るように痛みました。肩を観察していると、痛みが首や胸に移り、観察を続けるとまた肩に戻る。ぐるぐると常にどこかしらが痛む状況でした。この痛みや重苦しい感覚に、光の共感覚があり、白か黒の色彩感覚を伴っていました。この時は真っ白い痛み。
痛みを感じながら、同時に前職の同僚や上司に対する強い苛立ち、反感が脳内を占領しました。肩の痛み・重さは働いていた時と似たようなものだったので関係性も想像できたし、痛み自体は観察を続ければなくなったり変化することは実感していました。ただ、いつまでもぐるぐると回る痛みはかなり根深く、なんとなく、コース終了後も戦い続けるのだろうなと考えていました。

10日目
聖なる沈黙が解かれる直前、瞑想をしていて、前日と同様に脳内で元同僚と口論していました。ある瞬間、本当にふと、「相手の立場であれば相手が正しく、逆に自分の立場では自分が正しい」ということが、体感的に納得できました。当たり前のことですが、ものごとは多面的で、見方によって正しさが変わる。その気づきで、痛みはだいぶ軽くなったように感じます。
この日、沈黙は解かれ、他の参加者と話すことができました。ゴエンカ氏の指導のうち「体内の感覚」にまで達することはできず、劣等感を抱いていましたが、他の参加者も似たようなものだと知り、ちょっと安心したのを覚えています。

11日目、朝
最後の瞑想を行いました。10日目の気づきで消えたと思っていた前職の同僚・上司がまた脳内に現れて心をかき乱します。このまま中途半端に苛立ちを感じながら終わるのかと、少し悲しく思っていました。しかし、メッターバーバナー瞑想の最後、ゴエンカ氏の「これまで私を傷つけた人全てを許します。これまで私が傷つけた全ての人に許しを請います」という言葉を聞いて、突然涙が溢れだしました。
あー。自分はただ許されたかったんだな。自分が不甲斐ないせいで、訳もわからず失礼を働いた人たち。僕に実力がないばかりに迷惑をかけた人たち。僕の勝手な行動で損害を被った人たち。僕は謝りたかった。許してほしかった。ずっと。僕がその感覚に気づかないから、心は自分の正当性を主張して自分を守っていたのだと。今回のヴィパッサナー瞑想はその気づきで締めくくられることになりました。

ヴィパッサナー瞑想を終えて

最初に感じたのは、東京に対しての嫌悪感がなくなっていたこと。
緑が少なく空気が汚いのを理由に感じていた、「一刻も早く他の場所に移動したい感覚」がなくなっていました。東京はそのままであるだけ。それに対して嫌悪感なり渇望なりを感じていたのは自分だったと改めて気づかされます。

旅の荷物は結構重たいのですが、その重さに嫌気がさすことがほとんどなくなりました。以前はすぐにバスやタクシーに乗りたくなったものですが、今は疲れはするものの、嫌悪を感じることがありません。
ゴエンカ氏の教えは、大雑把に言えば、人生は苦しみの連続で、楽しさを渇望したり、心地悪さを嫌悪したりすることをせず、平静さを保てば幸せになることができる、というものだと理解しています。瞑想に参加するまでは、これは感情の起伏がなくなり、人生がつまらなくなることだと考えていました。

しかし、荷物で例えれば旅に荷物は必要です。荷物はどう頑張っても重いものです。その荷物を、重く苦しいものと捉えて、降ろした時の解放感だけを夢想して歩くのか。それとも荷物の重さには平静さを保ち、道中の景色、人との出逢いを楽しみながら、自分の目指す道を一歩一歩進むのか。
そんな風に考えられるようになりました。

苦難が訪れるのは避けられない。快楽がなくなるのも避けられない。人生という長い道のりでずーっと幸せに暮らすための技術が、ようやく見つかったような心持ちです。

どうか、多くの人がこの瞑想法で救われますように。

P.S. 他の参加者に聞いたところ、予習なしでは講話の内容を理解するのは難しかったとのこと。個人的には下に紹介する本を読んでから参加されるのをおすすめします。コースの終了後に紹介される冊子の中に含まれていたので協会公認のものだと思いますし、内容もとても理解しやすいです。


読んでくださって、本当にありがとうございました。