【小説】お月さまが見ている。
湿気が肌にまとわりついて離れない。まるで世界にぴっちりとふたをするように、真っ黒な空を分厚い雲が覆っていた。
空気中をただよう水蒸気と、人が吐く息とが混ざり合ってじっとりとしていて、けれどもどこへも逃げ道がない。そんな、地獄のような夜だった。
どこだっていい、なんだっていい。確実ならば。
いつからだったか。もうずっとそうやって、私は私を終わらせる場所を、方法を、探していた。
もしかしたら、終わるだけなら容易いことなのかもしれない。けれども私は、苦しいのは嫌だった。消えてしまいたい、生き終わりたいと強く焦がれながら、そこへ至るまでの道のりを思うと、どうしても挫けてしまう。
私はそんな、ちっぽけな存在であった。
今夜、自宅の窓から空を見上げたら、月が見えていなかった。新月の晩なのではない。あの分厚い雲が、月をすっかりと隠してしまっていたのだ。
人ひとりくらい簡単に隠してしまえそうな闇夜に紛れれば、消えてしまえると思った。決行するなら、今夜だ、と。
◇
――そう、この世にもう何の未練もないはずだった。なのにどうしてなのか、私は今、映画館の座席に座っていた。
数分前のことだ。あてもなく街を歩いていた私は、とあるビルの前で足をとめた。ビルの入口に映画のポスターが貼られていたのだ。それは、私が子どもの頃に見た作品のリバイバル上映だった。
今はもうどこにいるのか、生きているのか死んでいるのかも知らない父と一緒に見た、唯一の映画。父が消えたあとも、DVDをレンタルして何度も見たものだった。
久しぶりに、見てみようか。どうせ最後だし。
そうして私は、その古ぼけた雑居ビルの階段を降りていった。
映画館は地下にあって、昔ながらの雰囲気を残したままだった。重厚な扉が劇場と、真っ赤な絨毯を敷き詰めた廊下を隔てていて、扉の隙間からくぐもった音が聞こえている。
そっと扉を押し開けると、そこから細くのびた光が劇場内の一点を照らした。中にはほとんど人がいなかったので、迷惑そうに咳払いをするお客もいなかった。
私は少しだけ、わくわくしていた。もうずっとこんな気持ちにはなっていなかったから、やけに不思議な感じだった。父と見たとき、何度もレンタルして見たとき、あれほど胸に溢れた高揚感がまた蘇るかもしれない。そう思ったのだ。
◇
しかし驚くべきことに、その映画はひどくつまらないものだった。どこにでもあるような男女の陳腐な恋愛を描いた作品で、子どもだった私にとって何が魅力だったのか、まったくわからなかった。
極めつけは、相手の男役のセリフだ。
「人の気持ちは常に移り変わるものさ。そう、まるで季節が巡るようにね」
そう言い放った男は、あろうことかヒロインの女を捨て、他の女のもとへ走る。そして関係は泥沼化し……と、その頃にはすっかり見る気も失せてしまっていた。
やれやれ、時間を無駄にしたな。
唇の端に、苦笑が浮かぶ。たん、たん、と階段をのぼる足音がやがて途絶えると、私は再びビルの入口に戻ってきていた。
ふと空を見上げると、さっきまで隠れていた月が顔をのぞかせているではないか。分厚い雲の切れ目から控えめに、しかし確かな光を帯びて。
月光はまっすぐに伸び、私の足元を照らしている。
――確かに、人の気持ちは移り変わるものなのかもしれない。季節が巡るよりも、もっとずっと早く、気まぐれに。
子どもの頃に見た映画がつまらなくなったように、今のこの苦しみもまた、いつか形を変えるのかもしれない。
今夜はなぜだか、そんなことを思ってしまった。
まあ、いいか。あいにく、月が出てしまった。決行は、また次の機会に。
今回のお題「映画館」「月」
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