【小説】お月さまが見ている。

湿気が肌にまとわりついて離れない。まるで世界にぴっちりとふたをするように、真っ黒な空を分厚い雲が覆っていた。

空気中をただよう水蒸気と、人が吐く息とが混ざり合ってじっとりとしていて、けれどもどこへも逃げ道がない。そんな、地獄のような夜だった。

どこだっていい、なんだっていい。確実ならば。


いつからだったか。もうずっとそうやって、私は私を終わらせる場所を、方法を、探していた。

もしかしたら、終わるだけなら容易いことなのかもしれない。けれども私は、苦しいのは嫌だった。消えてしまいたい、生き終わりたいと強く焦がれながら、そこへ至るまでの道のりを思うと、どうしても挫けてしまう。

私はそんな、ちっぽけな存在であった。


今夜、自宅の窓から空を見上げたら、月が見えていなかった。新月の晩なのではない。あの分厚い雲が、月をすっかりと隠してしまっていたのだ。

人ひとりくらい簡単に隠してしまえそうな闇夜に紛れれば、消えてしまえると思った。決行するなら、今夜だ、と。


――そう、この世にもう何の未練もないはずだった。なのにどうしてなのか、私は今、映画館の座席に座っていた。

数分前のことだ。あてもなく街を歩いていた私は、とあるビルの前で足をとめた。ビルの入口に映画のポスターが貼られていたのだ。それは、私が子どもの頃に見た作品のリバイバル上映だった。

今はもうどこにいるのか、生きているのか死んでいるのかも知らない父と一緒に見た、唯一の映画。父が消えたあとも、DVDをレンタルして何度も見たものだった。

久しぶりに、見てみようか。どうせ最後だし。


そうして私は、その古ぼけた雑居ビルの階段を降りていった。

映画館は地下にあって、昔ながらの雰囲気を残したままだった。重厚な扉が劇場と、真っ赤な絨毯を敷き詰めた廊下を隔てていて、扉の隙間からくぐもった音が聞こえている。

そっと扉を押し開けると、そこから細くのびた光が劇場内の一点を照らした。中にはほとんど人がいなかったので、迷惑そうに咳払いをするお客もいなかった。


私は少しだけ、わくわくしていた。もうずっとこんな気持ちにはなっていなかったから、やけに不思議な感じだった。父と見たとき、何度もレンタルして見たとき、あれほど胸に溢れた高揚感がまた蘇るかもしれない。そう思ったのだ。



しかし驚くべきことに、その映画はひどくつまらないものだった。どこにでもあるような男女の陳腐な恋愛を描いた作品で、子どもだった私にとって何が魅力だったのか、まったくわからなかった。

極めつけは、相手の男役のセリフだ。


「人の気持ちは常に移り変わるものさ。そう、まるで季節が巡るようにね」

そう言い放った男は、あろうことかヒロインの女を捨て、他の女のもとへ走る。そして関係は泥沼化し……と、その頃にはすっかり見る気も失せてしまっていた。


やれやれ、時間を無駄にしたな。

唇の端に、苦笑が浮かぶ。たん、たん、と階段をのぼる足音がやがて途絶えると、私は再びビルの入口に戻ってきていた。

ふと空を見上げると、さっきまで隠れていた月が顔をのぞかせているではないか。分厚い雲の切れ目から控えめに、しかし確かな光を帯びて。

月光はまっすぐに伸び、私の足元を照らしている。


――確かに、人の気持ちは移り変わるものなのかもしれない。季節が巡るよりも、もっとずっと早く、気まぐれに。

子どもの頃に見た映画がつまらなくなったように、今のこの苦しみもまた、いつか形を変えるのかもしれない。

今夜はなぜだか、そんなことを思ってしまった。


まあ、いいか。あいにく、月が出てしまった。決行は、また次の機会に。

今回のお題「映画館」「月」

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