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【小説】紫色の彼女

春。

僕と、あいつと、彼女が出会ったのは、大学の入学式の日だった。

うんざりするほど長い学院長の話を聞きながら船を漕いでいた僕の脇腹を、つんつんとつつく感触。それで不意に、意識が現実に引き戻された。目を向けた先にいた女の子は僕を見ていて、にかりと笑ってこう言った。

「ね。抜けちゃわない?」

それが、僕と彼女――ユカリとの出会いだった。


結論から言って、僕たちが入学式を抜け出すことはなかった。やり取りに気づいた親友のタスクに、「さすがに目立つって」とたしなめられたからだ。

それでもそれをきっかけにして、僕と、タスクと、ユカリは出会い、そして仲良くなっていった。

ユカリはとても目立つ子で、どこか不思議な雰囲気を持った人だった。両耳に大きなピアスをいくつもつけていて、服はいつも真っ黒。前髪はぱつんと眉上で切り揃えられ、後ろ髪は肩上のボブ。髪の色もこれまた真っ黒だったけれど、内側だけが鮮やかな紫色に染められていた。風が吹くと髪がさらさらと流れて、黒と紫のコントラストがとても綺麗だったんだ。

もっとも、タスクは「なんだその色」なんて言って、いつも顔をしかめていたけれどね。

僕はユカリのことが、ずっと好きだった。きっと、出会った瞬間に恋に落ちていた。

彼女のあの屈託のない笑みと、少女のようにきらきら輝く瞳と、つかまえておかなければ飛んでいってしまうような危うさと。どこまでも無邪気で奔放な、彼女のありのままをただ、愛していたんだ。


夏。

僕たちは3人で、海へ行った。

「海だー!」

まるで子どものようにはしゃぐユカリの姿を、僕は今でもはっきりと思い出せる。砂浜の上でぴょんぴょん飛び跳ねて、体いっぱいで喜びを表現していたユカリ。それでいて、黒いビキニからすらりと伸びた手足とうっすらと汗ばんだ胸元はやけに色っぽくて、僕はとにかく釘付けだった。

あの細い体を抱きしめたい。そのまま紫の髪に口づけたら、どんな気持ちがするだろう――。

僕らに背を向けて海の方へ走り去っていくユカリを見つめながら、僕はそんな邪なことを考えていた。

タスクは、どうだったのだろう。3人で海へ行ったあの日、タスクがどんな顔をして、何を喋っていたのか、全然思い出せない。それだけ、僕の頭はユカリに埋め尽くされていたのだ。

夜は浜辺で、花火をした。

手持ち花火を振り回したり、ミニ打ち上げ花火の爆音に驚いたり。そしてひとしきりはしゃいだ後は、3人でまるくなってしゃがみ込んで、お約束の線香花火だ。

いつも明るいユカリも、この時ばかりは静かに手元の花火を見つめていたっけ。ぼんやりと明かりに照らされながら、口の端に穏やかな笑みを浮かべて、彼女はぽつりとこう言ったんだ。

「ずうっと、3人で遊んでいたいね」


秋。

僕は、ユカリと恋人同士になっていた。

「好きだ」

そう伝えたとき、彼女は頬を少し染めて、満開の桜みたいな笑顔を見せてくれた。僕はそれがとても、とても嬉しくて、有頂天だった。

けれどタスクとは、それを境に少しだけ疎遠になった。

「今までみたいに、3人で仲良しこよしってわけにはいかないだろ」

そう、僕らを気遣ってくれたのだ。僕は正直、それをありがたいことだと思っていた。それほど僕の頭の中はユカリでいっぱいだった。もしかすると、彼女以外のものなんかいらないと本気で思っていたのかもしれなかった。

けれど、ユカリは少し、寂しそうだった。

ユカリを抱くと、いつもちょっと変わった香りがした。

それは彼女が愛用しているシャンプーの香りで、聞けば、カラーの色持ちを良くしてくれる、ダメージヘア専用のシャンプーなんだと言う。やたらと長い名前のハーブが含まれていて、それが髪に優しいのだと。僕はいつまで経ってもそのハーブの名前も、シャンプーの名前も覚えられなかったけれど、そうやって自分の好きなものの話をニコニコとするユカリを見るのが好きだった。

ユカリの髪は、春に出会ったときから変わらずに、ずっとあの紫だった。僕にとって彼女を抱きしめながら髪を撫でたり、口づけたりする時間は、何ものにも代えがたい甘やかで素敵な時間だったんだ。

一度、聞いてみたことがある。

「ユカリは、どうして髪を紫に染めているの?」と。

するとユカリは、その紫色の毛先をくるくるともてあそびながら、こう言ったんだ。

「どうしてってほどの理由はないんだけど……。あたしの名前って、紫って書いてユカリって読むでしょ。だから、昔から紫が好きなんだよね」

へへっ。いたずらっぽく微笑むその顔も、すべてが愛おしかった。

――そうか。ユカリにとって、紫の髪はアイデンティティみたいなものなんだ。

なぜだかそのとき僕は、そんな風に感じていた。



そして、冬。

ユカリは、髪を真っ黒に染めてしまっていた。あの独特なハーブの香りも、もうしない。


先日のことだ。授業後にバッタリ会ったタスクが、家まで送ってくれるというので、車に乗せてもらった。そのとき僕は、助手席の足元でキラキラと光る、紫色の髪の毛を見つけたんだ。

ユカリとタスクが2人で会っている、という話は聞いていない。けれど、2人は友達でもあるわけだから、仮に僕抜きで会っていたとしても、なんの問題もない。……はずだ。だから僕は、何の気なしに聞いたんだ。

「最近、ユカリと会ってる?」

そうしたらタスクが小さく笑って、言った。

「会うわけねーじゃん。お前も一緒ならともかく」

……そっか。

笑顔を崩さず、そう言った。言えたはずだ。

じゃあこの髪の毛は? どうしてタスクの車の中に、ユカリの髪の毛が落ちてるんだ?

聞けばよかったのかもしれない。でも、僕は聞けなかった。

本当は、気づいていた。2人が時々、僕に黙って会っていることに。ユカリは嘘をつくのが下手な子で、時折、やけにソワソワしていることがあった。その時は決まって、ユカリからは甘い、花のような香りがしていたんだ。ユカリが愛用していた、あの独特のシャンプーの香りじゃなく。

――タスクが使っているのと、同じシャンプーの香りが。

タスクとの会話のすぐ後だ。ユカリが、突然髪を黒く染めてきたのは。

「飽きちゃった」

ユカリはそう言って笑っていたけれど、なんだかちょっと、泣きそうな顔だった。


ユカリが、どんな気持ちであの紫を手放したのか、僕にはわからない。彼女にとってあれは、ただ髪を染めるという以上の意味を持つ行為だったはずなのに。

「ずうっと、3人で遊んでいたいね」

そう、穏やかに微笑んでいたユカリ。キミはあの言葉を、どんな気持ちで言っていたんだろう。

僕はもう、わからないんだ。


目を閉じると、今でもあの頃のユカリが微笑んでいる。少女がそのまま大人になったような、無邪気で、奔放で、危うげで、だからこそ目が離せない。僕が大好きだった、紫の髪色をしたユカリが。

今夜も僕は、瞼の裏に棲み着いた紫の幻影を抱きしめて、眠る。


今回のお題「紫」「シャンプー」

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