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今この瞬間にYESというなら。

人生のうち、何度かの「いまだ!」もあったし、いくつかの「コレだ!」がありました。一歩前に足を踏み出し、ひとつひとつ学びを深めて、自分のモノにする手応えを感じながら、選択した自分に確信を深める。出会えてよかった、始めてよかった、と心から思うのです。そのときは。

でも、歩を進めるごとに少しずつ見たい景色が変わってくることもあれば、その先に待ってる人との出会いで更なる新たな道の新たな一歩を選びたくなるときもある。もしかしたら、歩いてきた道のりをもう一度確かめたくてUターンすることだってありえるのかもしれない。

何をしても、何をはじめても。いつかは、「コレじゃない!」と出会ってしまう。「コレじゃない!」と思わないわたしになることが、自分に満足する生き方なのかな?と考えてみたこともあります。執着しない生き方、というのですか?求めすぎる自分がわがままでダメなんだと思ってしまったのです。

でもね、考えたのです。執着って捨て去ることができるのかな?と。執着から自由になる生き方ってあるのかな?と(←ここを本気で目指してましたw)

思考の観察をしていたときに、自分の好きな思考は選べないし、否応無しに思考は流れてきてしまうんだね、がよーくわかりました。それと同じで、執着も捨てられないのでは?

わたしなりに頑張ってきたよ。執着と十分に闘ってきた。でもさ、もうやめる。やっとそう思えるようになってからだったでしょうか?執着が勝手に離れていった気がしました。こんな自分でもいいじゃんって。しょうがないじゃんって。

                                                        ===

GW中、オンライン瞑想会に参加してました。その中に「YESの瞑想」というのがありました。「いま、この瞬間にYESというなら、わたしは〇〇をしています」といいながら、動いていきます。(今している動作ひとつひとつにYESと言っていく)

一瞬一瞬に気づきを持ち続けるというヴィパッサナー瞑想(だったかな?)と同じだと思うのですがセリフにある「いまこの瞬間に...」を言葉にしたとたんに、無意識に思考していたわたしを瞬時に「今ここ」に戻してくれるパワーの大きさ。

さらに、どんなことにもYESといって肯定的に見守り、受け入れる柔軟な姿勢。よくなりたいがために自らが自らに下していた「これじゃダメ」は正反対だったんだわ。

右足を一歩出す、呼吸を深くする、口元に微笑みをつくる。どんな動作にもYESという度に、自分の中にスペースが生まれて周囲と溶け合い、自分がどんどん開かれていくような感覚が広がっていきました。

こっちのわたしが“ホント”だわ。

いま、今この瞬間を体感していることこそが“真実”なんだ。

一瞬一瞬は常に変化の連続です。完璧な何かなんて存在し得ない。変化し続けるわたしはいつも未完成。未完成だからこそ「生きる」を楽しめるのです。今後もわたしに訪れるであろうたくさんの「コレだ!」をジャッジせず、たゆたうままによりそっていこう。



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