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歴史の学び方~陥りやすい3つの誤解~

こんにちは、Naoです。
いつもご覧いただき、ありがとうございます。

今回は、歴史の学び方についてお話いたします。
長文につき、お見苦しいところもあるかも知れませんが、最後までお付き合いいただければ幸いです。

(1)はじめに

 歴史ブームが訪れてから随分経ちます。一時のブームで終わってしまった方もいるでしょうが、「歴女」の皆さん、大河ドラマを観る方、歴史に学ぶビジネスマンなど、今でも歴史の勉強に励んでいる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 ところで、歴史を学ぶ上で「歴史とは何か」ということを考える必要があります。なぜなら、「歴史とは何ぞや」ということは歴史学習の土台に当たるもので、これを学ばないと誤った見方で歴史を勉強することになるからです。
 『歴史とは何か』(E・H・カー)という本があります。そのものずばりのタイトルですが、本書は歴史を学ぶ者なら誰もが知る歴史哲学の名著です。この中で、歴史とは「現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」であるとされます。歴史は現代人の主観を通して見るものであり、不動のものではなく、見る人によって姿かたちを変える流動的なものであることを忘れてはなりません。
 本稿では歴史を学ぶ上で陥りやすい3つの誤解を説明し、歴史をどのように学べばよいか論じます

(2)誤解①:「正しい」歴史が存在する

 歴史とは過去の出来事です。当たり前ですが、過去の事実は変更できません。従って主観を排除し客観的な事実のみを集めれば、唯一絶対の歴史書が出来上がるように思われます。実際、19世紀の歴史学者は事実をありのままに編纂することが歴史学者の役割だと考えていました。
 確かに新事実でも発見されない限り、過去の事実は変わりません。しかし、無限に存在する事実の中から、何を歴史的事実として取り上げるのか、また事件が何故起こったのか(因果関係)を判定するのは、歴史を学ぶ者の主観です。主観を通さずして歴史を語ることはできません。歴史の見方は、歴史を学ぶ者の数だけあるのです。
現代人が現代について論じるときも、語り手の数だけ説明の仕方がありますね。いわんや過去の出来事についても同じことが言えるのです。
 ですから、歴史を知るにはバイブルとなる1冊を何度も繰り返し読んで体得するだけでは不十分なのです。あくまでそれは、その本の著者の考えであって、それがすべてではない。複数の歴史書を読み、多面的に学び、その中から自分が納得できる説明を採用する。そうしてオリジナルの歴史観を構築することが重要です。

(3)誤解②:「日本人のDNA」という虚構

 『日本史』の教科書は人類の誕生、石器時代と始まります。しかし、石器時代に「日本」はありません。
 日本史など、国史を学ぶ上の注意点は、現在の国の形が、ある日突然誕生したという錯覚に陥ることです。「ローマは1日にしてならず」ではありませんが、今の日本は長い年月をかけて出来ました。
 まず「日本」という名前が生まれたのは、7世紀と言われています。その頃の大和政権が支配していた地域は、今の近畿地方を中心とする限られた地域でした。そこから徐々に支配地域を拡げたのです。また国民という意識が芽生えたのは、明治時代以降です。これはナショナリズムの影響で日本に限らず欧米でも同じことが言えます。この頃に様々な統一が図られます。例えば言葉がそうです。当時は同じ「日本人」でも話す言葉がバラバラ(方言)で、意思疎通もろくに図れないので「国語」が生まれます。
 要するに今の日本は、長い時間をかけて多様な人々を取り込みながら出来たのです。したがって「日本人の気質」、「日本人のDNA」など紋切り型の見方を定めることはできません
 日本人論を語るときは、日本人とは何か定義しなければ、そもそも議論が成り立ちません。当たり前のように使っている主語は何を指しているのか意識することが重要です。

(4)誤解③:歴史上の人物について善し悪しを判断する

 「私のしたことは、未来の人たちが評価してくれる」という政治家がいます。確かに長い目線で評価しなければならないことはありますが、現代人は歴史上の人物の行為の善し悪し(特に道徳的な問題)については裁定してはならないということに注意が必要です。
 そもそも現代と過去では価値観が異なります。私たちの常識が100年後では非常識になることは十分考えられるでしょう。もし100年後の未来人が、私たちを100年後の価値観から判断して「100年前の人間は野蛮人だった」などと評価したならば、ご無体だと思うのではないでしょうか。
 現代でも文化の違いについて善し悪しを判断するのは簡単ではありません。まして、反論のしようがない歴史上の人物を非難しては、草葉の陰から泣かれます。
 イタリアの哲学者クローチェも「我々の法廷は、現に生きて活動している危険な人々のために設けられた現代の法廷であるのに、被告たち(歴史上の人物)は既に当時の法廷で審かれていて、二度も有罪とか無罪とかの判決を受ける事はできない。(中略)彼らの事業の精神を把握し理解しようとする判決以外いかなる判決も受けることはできない」と述べています。
 では、歴史に対する価値判断について、私たちには何ができるのか。
 歴史を現代に活かすのであれば、「なぜそのような制度があったのか」、「なぜそのような判断が下されたのか」など、人物に対する批判ではなく現象に対して批判すべきでしょう。

(5)まとめ

 本稿では歴史を学ぶ準備運動として「歴史とは何か」、歴史を見る際に陥りやすい誤謬について論じました。
 歴史とは現代人の目を通して過去を見ることです。過去の事象に対し、スポットライトをどこにどのように当てるかは一人ひとりによって異なります。したがって唯一絶対の歴史を探すのではなく、複数の見方を学び、自分の歴史観を構築することが重要です。時間と労力を要しますが、自分で歴史書を書くことが歴史学習の究極形態といえるかもしれません
 一方で、歴史を学ぶ際に誤謬に陥らないためには、私たちは何をどこまで言及することができるのかを意識することが重要です。
 以上を踏まえ、歴史を学び、過去の先人たちから実りある果実を受け取られることを願います。

【参考文献】
『歴史とは何か』(E・H・カー、岩波新書)
『「日本」とは何か』(網野善彦、講談社学術文庫)

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