g : gravity
西暦21XX年。外気圏を超えた宇宙空間に、一つの宇宙船が浮かぶ。地球から約10万キロメートル離れた場所に位置するその宇宙船は、月面旅行のツアー客を乗せ舵を切っていた。
「うーん。無重力ってやっぱり最高よね。文字通りどんな重圧からも解放してくれるわ。人類が地球を飛び出そうと進歩を進めてきた理由ってきっと本能的なものよ。そうに違いない」
ひとみは船内のフリードームと呼ばれる球状の部屋で、ふわふわと漂いながら猫がじゃれるような至福の顔をしてそんなことを言った。
「そうね。けど、重力があるからこそ、地に足着けた生き方もできるんじゃない? ふわふわ漂う人生ってほら、浮き草みたいな人生ってことでしょう――まあ浮き草も、重力があるから浮いていられるのか」
応えたのはさやかだった。最近仕事やプライベートでストレスフルな様子だったひとみを、気分転換にと月面旅行ツアーに誘ったのは彼女だった。
「? どういうこと? 重力があるから浮いていられるって」
膝を抱えて宙空でくるくると回りながら、ひとみが訊く。それを見ていたさやかは、なんだか目が回ってくる気がした。
「風船と同じよ。あれは風船の中のヘリウムガスが、周りの大気よりも軽いから浮かんでいるの。ヘリウムより重い大気が、ヘリウムの下にその重みで割り込んで持ち上げる。これって、軽い重いという概念が存在して初めて起こることじゃない。本来物体がもつ質量っていうのは、重力がありきの重みではなくて、その物体の動きにくさことなのよ」
「動きにくさ?」
ひとみが回転を緩めようと手足を広げる。
「そう。別の言葉でいうと、その物体の慣性の強さってことね。質量があればあるほどその物体は、周りの力学的な影響を受けにくい、というのかしら」
「ふーん」
「意味わかった?」
「たぶん。ピンポン球をデコピンすれば余裕で吹っ飛ぶけれど、鉛球をでデコピンするのはちょっと痛いってことでしょ?」
片目を閉じながら、ひとみは眼前でぴんとデコピンのジェスチャーをしてみせる。
「んー、まぁそんな感じ」
さやかが応えると「そっかー」といって、ぼんやりと宙を漂うひとみ。先ほどふざけていたときの慣性で、まだ身体がゆっくりと回転している。
「じゃあさ、無重力だと、いろんなものに埋もれちゃうのかな。自分が他のものから、浮き出てこられない訳だから」
「そうね。無重力なのに埋もれちゃうって、変な感じだけれど」
「重力って大したやつなんだな」
ほー、と感嘆のために漏らした息は、溜め息の色も滲ませている。
「人が生きていくためには、重力が欠かせない。けれど、重力のせいでプレッシャーを感じちゃう。なんたる世界だ」
「いや、そこで言うプレッシャーは精神的なものでしょう。それ重力のせいにしてどうするの」
さやかに指摘され、「うーん」と思案げのひとみは、ふと思いついたように訊いた。
「逆にさ、重力を有効活用とかできないの?」
「うーん、あ、ほら。最近小型の転送装置ができたじゃない。小包とか転送できるの。まだ時空の制御が正確じゃないとかで人は乗せられないそうだけれど……あれは重力を制御して転送してるんだって」
「え? どういうこと?」
「えっと……ブラックホールってさ、重すぎて光が逃げられないって言うじゃない?」
「言うね。すさまじい重みだ」
「あれって光に質量があるわけじゃなくて、重力が強すぎると周りの空間が湾曲しちゃうの。その湾曲の仕方がある一線を超えると、光はブラックホールの外側の空間に戻って来られなくなる」
「空間が湾曲?」
「厳密にいうと、時空が湾曲する。ブラックホールの中では、時間が止まっちゃうのよ。外から見ると」
「いや、もっとわからなくなってきたんだけれど……」
ひとみは溜め息をついた。もはや感嘆の色はまるでない。
「みんなブラックホールに飲み込まれちゃえ」
「話の着地点が雑だぞー」
呆れるさやかの様子をみて、ひとみはけたけたと笑う。
「あら? 当然じゃない。いや、自然というべきかしらね――ここ、無重力なんだから」