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ウガンダの義父が本当に素敵だった

義父と義母のウェディング写真は、何度見てもうっとりします。

義母は79歳の今も、いつも笑顔全開で、ガンダ語しか話さないけれど、温かい人柄が全身から溢れ出ています。義父も、温かい心で私を受け入れてくれていたのですが、それがわかるまでに、ずいぶん時間がかかりました。20年かかりました。私にとって義父は、もの静かで、あまり大声で笑ったりする事がなく、真面目なカトリック教徒という印象だったからです。

そして何よりも、ガンダの文化が私の前に立ちふさがっていました。

ガンダ文化が立ちふさがり始めたのは、2004年12月から2006年1月まで、私がウガンダに住んでいた頃でした。義父母とは離れて暮らしていましたが、ウガンダでは、冠婚葬祭等の行事が多く、義父母に会う機会もたくさんありました。そして夫の兄弟の奥さん達、つまり私と同じ立場のお嫁さん達が義父に接している様子を観察する機会もありました。

すると、どうやら、義父に対して、嫁は、触らないだけではなく、もっと距離を取る必要があるようでした。

・会話をする時は、嫁は義父から2メートル位離れた所に膝を地面に着けて座わり、義父は息子の嫁の顔を見てよいが、嫁は目をふせる。

・物の受け渡しは、直接しないで、第三者に渡してもらう。

・並んで写真に写ってはいけない。

・義父の使う洗面所を息子の嫁は使ってはいけない

義兄弟の奥さん達の様子を見たり、他の方々から聞いて、このような事がルールだとわかって来ました。守らないと、義父が年老いてから病気になると信じられています。

こういった事を知る前の私は、義父との距離が近く、すぐ近くに座って写真に写っているし(撮ったのは、ガンダ族の夫ですけど)、顔もまっすぐ見ていました。もしかして、私の接し方は、義父にとっては不快だったのではないかと、徐々に心配になってきました。

もちろんそれが迷信で、昔々のガンダの人々が、お義父さんとお嫁さんがいけない関係に陥らないように用心する為に始めた習わしだと、誰もが分かってはいます。だけど、私と同年代のガンダの人々も普通に守っているしきたりを、自分だけ外国人だからって、守らないのは、気持ち良くありません。知らなかった時は仕方ないとしても、知ってしまってからは、守るべきでしょう。しかし、今まで近くでご挨拶していたのが、今日から、距離をとったり、目を見なかったり、と変えるのも難しいのです。

このように考え始めてから、義父に会うたびに、自分の振る舞い方の正解がわからず、ぎこちなくなりました。

更に不運な事に、挨拶はガンダの人々にとって、とても大切で、とても長いのです。義父の前に跪いて挨拶する事が、始めは楽しめたのですが、もはや、テストを受けているかのように感じ始めました。

ガンダ語で、ご挨拶に当たる言葉は、「オクブーザ=質問、お伺い」で、通常の挨拶は、2~3セットの質問と答えで構成されています。例えば、誰かの家を訪ねた時に、最初に「お会いできて嬉しいです」と言葉を交わした後、家族や仕事について必ずいくつかの質問の受け答えをします。例えば

「夜はどのように眠りましたか?」

「日中はどのように過ごしましたか?」

「お家のご家族は皆さんお元気ですか?」

「お仕事はいかかですか?」

ご家族や、お仕事の部分のトピックが、学校だったり、場所の名前だったり、持病だったり、そこへ着くまでの旅程だったりと、時と相手に応じて変わります。

そして、最後は「いつも○○してくれて有難うございます。」と、ねぎらいとか、感謝の言葉で「オクブーザ」が終わります。思いやりに溢れた素晴らしいやりとりですが、ガンダの人達はこのやり取り全体を挨拶と考えているようです。

ガンダ語で挨拶ができると義父母が喜んでくれたので、私も始めのうちは、一生懸命、覚えて得意になっていました。しかし、毎回少しずつ内容が変わる部分が分かったり、分からなかったり、その度に、テストを受けているような感じがしてしまうのです。そこに、義父への正しい距離の取り方問題が加わりました。そして、挨拶以外のガンダ語は、未だマスターできずに来ていますので、他の会話は、いつも誰かに通訳して貰っていました。その為に、義理の両親とは敢えて、深い話しをすることもなく過ごしてしまいました。

今にして思うと、義父との時間をずいぶんもったいない過ごし方をして来ました。自分の振る舞い方とか、挨拶の仕方ばかりに気を取られて、義父の内面を理解しようとしてこなかったのですから。

昨年(2019年10月)に義父は他界しました。93歳でした。この歳でしたので、もう、私が触ったから病気になるという事もなかったでしょう。けれど、2019年の2月にウガンダで最後に会った時まで、義父との距離を保つというしきたりは守り続けていました。ウガンダと日本で電話でご挨拶をする時にも、私の方は相変わらず、緊張していました。10月に入院したという知らせを受けてから、数日後に義父は亡くなりました。日本に居て看取る事ができなかった夫は、義父が具合が悪いと知ってから、心はもう日本になく、憔悴して見ていられませんでした。大急ぎで、夫一人でウガンダに帰り、埋葬にはぎりぎり間に合いました。埋葬から一月程ウガンダに滞在して、日本に戻ってから、ぽつりぽつりと義父の思い出を語るようになりました。

どうやって息子達の学費を捻出したか、どうやってお爺さんから受け継いだ土地を守ったか等の話でした。すると私の中にも、義父について知りたい事がたくさん湧いてきました。今まで、振る舞い方ばかりに気を使っていた事が悔やまれます。通訳を介してでも、どうして、もっとお義父さんからお話を聞かなかったのだろうと。夫は、日本からよくWhatsAppの通話機能を使ってウガンダの家族と話しています。義父と夫が話す度に、必ず「ナントンゴアリアチャ(ナントンゴはどうしている?)」と聞いてくれていたと言います。そして、まだ義父が意識がはっきりしていた時に、最後に電話で夫に言った言葉は

「Keep Nantongo (キープナントンゴ)」

だったそうです。ガンダ語で話したはずなので、ナントンゴを大切にしなさいとか、ナントンゴを離すなというような意味のガンダ語を言ってくれたのでしょう。

お義父さんを理解する事よりも、ガンダのしきたりの事ばかり心配していた嫁なのに、お義父さんは、私を家族と思ってくれていたのですね。

2020年2月に私は夫を日本に残し、一人でウガンダを訪問しました。夫の実家では、今まで使えなかったバスルームを使えるし、泊っても大丈夫だし、緊張する事がなくなりました。お義父さんはもういませんけど、家の中じゅうにお義父さんの思い出がつまっていて、今までのいつよりもお義父さんを身近に感じる事ができました。「お義母さんが、寂しいから、ゆっくりしていきなさい。」と言われているような気持ちがしました。

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「おじいちゃんの山」という所にあるお義父さんのお墓に花を供えに行きました。そこは、夫の親類が所有する一つの丘なのですが、一角に夫の先祖達が眠っています。光が神聖で空気が澄んでいて、義父が気持ちよく眠っている事を誰でも行けば実感できます。

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結婚20年目にして、義父が他界してしまってからではありますが、ようやく、しきたりとか言葉の壁を超える事ができたように思います。今では、夫の、ふとした表情がお義父さんとそっくりだった時に、思わず心の中で、「ンサニュセオクラバセボ(お会いできて嬉しいです)」と挨拶しています。





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