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私は戦争を知らない。だけど戦争について考える。

私は平成産まれだ。戦争は知らない。
小学生の頃は、図書館には戦争の本がボロボロになって置いてあり風貌からして怖かった。
夏休みの時期になると必ず『爆撃が落とされた国、日本』みたいな戦争にまつわるニュースや映画やドラマが流れていた。やっぱり怖いという印象が強く、チャンネルを変えていた。
夏休み前や、後に体育館で道徳の時間を過ごしたこともあった。ヨボヨボのおじいちゃんやおばあちゃんを招き戦争について教えてもらう授業内容だった。
怖かった。
その後にお礼のお手紙を書いたり、感想文をみんなで書いて、発表し合う時間もあった。
私はなんて書いていたんだろう。
目を逸らしてきた私は何を書いたのだろう。

最近世界でも戦争をしている国が目立つ。日本には関係ないだろうという思考は止まない。だけど日本のお偉いおじさんたちは国の軍事費用を大幅に上げた。「なんでそんなことに使ってんだよ!」「もっと使うところがあるだろ!」と日々の生活の不満に目をむけ、やはり戦争は私には関係のないものだという意識下にいた。

夏休みの戦争関連のニュースも、映画もドラマもいつの間にかなくなってしまった。働き始めて夏休みがないから、目に入らなくなったのかな?
そんな訳がない。

今日本には、戦争を知らない人が大勢居る。怖い。誰も助かるすべや、大切な人を守るすべを知らないのだ。こういった無知が、人を不安にさせ「戦場に行かなくてはならない」「戦うのが家族のため」と思ってしまうのではないか?

私は今年1歳になる子供がいる。母親になって防災意識も、消費税も、物価上昇や不景気がそういった政治的問題がゴロゴロ目に留まるようになった。そして同時に、戦争も何故か身近に感じるようになった。

「今大地震が起きたら?」
子供を保育園に迎えに行く?私は防災リュックを背負ってどうする?どこに身を隠す?お子は?私が守らなかったら生きられる?

それと同じくらい「もし明日戦争になったら?」
旦那は徴兵されもう会うことはないだろう。きっと。親兄弟は離れたところにいるが連絡も、最期にも会うことなくさよならするのだろう。そして私はお子を守れるのだろうか?お子は大人が無関心だった犠牲者になってしまうのか。日本は日本でいられなくなったらこの子は豊に、豊に生きていけるのだろうか。

そもそも私たちは生き残れるか。
例え爆撃に遭わなかったとしても、大量の死体を見て、今までの暮らしは絶対にできなくて、誰かの奴隷にならなくてはいけなくなったら?足や手が、目が顔が火傷や負傷で切断したら?友達家族が殺されたら?
私は生きることを選べるだろうか。不安が込み上げる。

「君とお子が生きてたら僕は生きる意味があると思う」

旦那が言ってくれた。涙が出た。私も彼とお子がいる限りは生きよう。そう思った。

彼が言い放ったことは真理だし、全てではないかと感じる。人間皆誰かの子で、誰かの大切な人なんだ。忘れがちだけど。当たり前なものって見落としがちだよね。誰も1人ぼっちじゃ無いんだよ。絶対そう。(絶対なんかないって口癖の私でもこれはそう信じたい)


私にはわからないけど、殺し合いのゲームとか、銃を使った遊びとか。あぁいうのは「幸せ」な人ができることだよね。実際戦場に行きたくない人は山ほどいるけど、行かなくては行けないから借り出されて。実際に人を殺して、生きるために強制されて。子供も戦場に出てわけもわからず、それしかない場所で生きている。遊びじゃなくてリアルで。

私にはわからないけど、戦争は絶対にしたくない。図書館の本も、戦争の話も、ドラマや映画も見れなかった私は、目を背けて、怖くて逃げてきたけど。「怖い」という意識が有るか、無いかだけでも十分なんじゃないかと思う。怖いことなんだよ。

私は戦争を知らないけど、誰かの大切な人を傷つけ合うのはしたくない。戦争をしなくて済む方法は幾つでもあるんじゃないか?なぜそこまでに至ったのか紐解いてみたら結局「順番を抜かされた」とか「余計なこと言われた」とか『悲しい思い』をさせられたことからくるんじゃないかな。例えばね。

私より下の世代は戦争をどう感じているのだろう。世界にどれくらい目を向けている人がいるのだろう。自分の意思や思いを、どれだけ人に伝えることができてるのだろう。


私たちは戦争をしないために何ができるんだろう

何ができるんだろう。考えてみて欲しい。1人1人、何ができるか考えて続けてみよう。平和を守るために。そしてできるならば声をあげて欲しい。友達や家族と話し合おう。平和を守るために。

戦争は私と、私たち世代には合わないよ。そう思わない?

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