校則の意図を考える

 今日はどうやら、私の中の校則への見方が変わったみたいだ。

 ふと考えたことだ。
 私は今まで、『校則』というものは教師らの承認欲求を満たすためのものだと考えていた。
 『ブラック校則』などという言葉があるように、校則の内容は本当にそんなルールが必要なのかというものが存在するからだ。
 髪染めやピアス、メイクの禁止など、その理由を聞いて納得した答えが返ってきたことは無かった。
 だから先生たちはこれらの校則に関して、
ただこのルールを破るものを校則を破ったという理由で立場の低い生徒に怒る。そんな哀れな快楽のためにこんなルールをでっち上げたと、そんなふうに思っていた。

 でも私が今日考えたことはまた違うことだった。そもそも校則というものができた訳には、もちろん生徒自身を守るという意味はあるのだろう。実際今の先生からもそんなふうな説明を受ける。
 でも他にもっと大切な、私たちが一つの国の民として生きていくために大切な概念かもしれないと、そう気づいたのだ。

 実際に、このようなおかしな決まりは校則に限った話ではない。私はまだ学生だが、どこかの会社に勤めればその会社のルールにも、社会の暗黙のルールとやらも、ましてや法にまで。全部が全部そのルールに疑わしい所がないかと言われれば、きっと否だ。

 そんな時、学校生活からも変わらず存在した「ルールはルールだから従わなければいけない」という考えが大いに発揮されることだろう。そして従わないものは例えば停学や退学のように、排除してしまえばいい。

 いや、少し悪いように言いすぎたかもしれない。
 これらの習慣は先に述べたように、もちろん一つの国家が成り立つ上で大切なことだと思う。ルールは全てが等しくみんなのためにある訳では無い。ある人には迷惑で理解のできないものでも、ある人にとっては自分を守るものとして置かれるものになる。
 そんな時、私には必要ないからそんな決まり守らないと言われれば、全ての決まりが成立しなくなってしまうだろうから。

 まあ、今私が言ったのは「校則」、一見意味の無いルールが存在するわけと、私たちがそれを「ルールはルールだから」と守らなければならない理由についてだ。

 だが、だからといってこの世の全てのルールに「ルールはルールだから」という理由で押し切れるはずはない。
 皆が「ルールだから」とルールを破るものをただ嘲笑っていてはいけないのだと思う。
その多くのルールを守る者の中に、いくつかのルールを破る者がいて、そうやって社会はまた新しい変化を遂げるのかもしれない。

 多分私はただルールに従う側の人間だろうな。

 あなたはどっち?

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