感謝とは、限られたものにしかできない有難い行為だ。

 私の家族は三人兄弟で、兄・弟の真ん中に私となる。女である私はよく家事を手伝えと言われたのだが、男である彼らは仕方ないという母が私は嫌いだった。

 でもやはり多少の男女の差はあるんだろう、彼らはいつまでたっても家事のことに対して全く他人事のように感じる。それは日々ひとつ屋根の下で暮らす者として感じる違和感がそう言っている。

 兄は一応、1番最後に風呂に入り風呂場の水を拭き取ったりと、さらえる係。しかし弟と言えば、少し前までは何度も風呂に入れと言っても「はーい」と空の返事ばかり返していた。別に弟が風呂に入ろうが入らなかろうが私はどうとも思わないが、弟が風呂に入らなければ兄が風呂に入れない。そんな事を考えられないことに呆れていた。

 といっても一応まだまだ子供の弟だから、そう言い聞かせるしかもはやない。

 しかし他にも、兄弟には家事などの配慮が全くない。洗い物をしてもらっているのなら、言われる前に洗い物は出しておくべきだし、この家はみんなの家だから、リビングに私物を放ったらかしにしておくのは迷惑な事だし、それを片付けるのもまたあなたじゃない。

 これは、それら配慮ができないということは、つまり毎日家事を、私たちの管理をしてくれている母にも もちろん感謝などできるはずがない。できたとしたも、それはくだらないお礼、そんなもの感謝と言えるだろうか。

 私はたとえ兄弟と平等でなかろうと、今こうして家事ができていることに感謝したい。きっと小さかったときの私なら分からなかった。苦労を得た先に知ることの出来る感謝も知らないままだったかもしれない。

 知らないものに、ありがとうなんて気持ちは勝手になど生まれない。あなたがもしこだわって感謝しているものがあるとするならば、きっと同じようにその対象に一度は苦労や熱意を向けたことだろう。

 きょうも、生きていることに感謝できることは私が今まで生きるということに苦労を重ねることができたからだ。

 感謝は配慮へと現れる、たとえそれが内なるものでも。私はそう信じたいことだよ。

 あなたが感謝していることって?


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