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黒猫りんの物語世界1

1、黒猫りんと三毛猫にゃん太


早朝、カーテンを開けると、光が飛び込んできた。闇が払われ照らされた部屋も、私も、見た目は数か月前と変わらない。
なのに、すべてが変わってしまった。
多くを失ってしまった。
そう思った。
ふと、そんなことはないと反論する自分がいる。障がい者になってしまったからといって、笑って生きてはいけないなんて、うつむいて端っこを歩かなきゃいけないなんて。
そんなことは絶対にない。

背中に負いきれないほどの重荷を引きずりながら生きてきて、希望に見えていたものから突然の裏切りと犯罪に遭い、私の心は壊れた。
その壊れ方が尋常じゃなかったから、統合失調症という病名を与えられた。私の体験した狂気は、言語を絶するものだった。
その出来事について、まだ、心で整理ができたわけじゃない。

でもこう考える。

私は自分の作り出した物語世界の中にいる。幻聴や幻覚はすべて、物語の中で起きうるものに限定される。
私の脳はただ壊れたんじゃない。
絶望のあまりおかしくなった私を助けるために、私のための物語を構築し、その中に閉じ込めて、私を守ろうとしたのだ。
人はやたらめったら、おかしくなったりしない。おかしく思われる言動の背後には、心と脳だけが知っているなんらかの、しっかりとした理由があるだろう。
私がそうであるように。きっと。


支度を整え、外に出る。
黒い日傘で強烈な日差しをよけ、生ぬるい風の吹く初夏の道をいく。発病して半年、退院してから三か月が経った。
数日前、病院のデイケアに通うよう、先生からアドバイスを受けた。
デイケアとは、いくつものプログラムから好きなものを選択し、レクリエーションに参加するというもの。
病気の私が日常を取り戻す、足がかりになるものらしい。
私は好きなカラオケもある音楽と、ガーデニングのプログラムを選んだ。

一人電車に乗り、病院へと向かう。
最寄り駅から徒歩二十分の距離なのでタクシーを使う人も多いが、お金がないから灼熱のアスファルトの上を歩くしかない。病院の広い敷地の隅に、ひっそりと建っている神社の、小さな鳥居の前に、七歳くらいの小さな女の子が立って、しきりに病院の方を気にしていた。
私が病棟に続く道へと向かうのを見て、傍まで駆けてきた。
「病院に行くの?」
女の子は髪を二つに分けて結び、ピンクのワンピースを着ている。大きな口に細い目で、子供独特の素朴な可愛らしさがある。
私はかがんで目線を合わせた。
「うん」
「じゃあ、お姉ちゃん、これ、お父さんに渡して」
小さな包みを私の手に押し込めて、それだけ言って、走って帰っていってしまった。
「お父さん?」
待って、せめて名前を教えてと言う前に、女の子は姿を消していた。
「どうしよう」
私は包に目線を落とした。
緑色の薄い紙の中に何かが入っている。
そっとあけると、三毛猫の顔だけの小さなぬいぐるみが出てきた。
縫いが不器用で、たぶんあの子供が一生懸命に作ったものなのではないか。
包みなおし、ポケットに入れて、途方に暮れる。
「お父さん、か」
誰のことなのか、手がかりが少なすぎる。デイケアのスタッフに相談してみるくらいしか、方法はなさそうだ。

デイケアのルームに入ると、すぐにスタッフが飛んできて、このデイケアでの過ごし方を細かく説明してくれた。
覚えることがいっぱいだったので、ぬいぐるみを渡した女の子の父親について、相談する機会を逸した。
クーラーの効いた広い部屋に、いくつもの机が並んでいて、それに沿ってパイプの椅子があり、好きに座っていい様子だ。
部屋の端の鬼門の方角には、巨大に膨れ上がった金魚が一匹、大きな水槽の中で動かずに佇んでいる。
窓側の真ん中には、大きなボードがあって、色々な用件が書かれてる。
とりあえず、私はそこが中心なのだと思って離れ、できるだけ目立たなさそうな、人の少なそうな場所を選んで座った。
すると背後で「にゃん」という声がした。
振り向くと、不精髭で、どことなく猫に似た風貌のおじさんが、私をじっと見つめていた。
「にゃん」
おじさんはもう一度、私を見ながら猫の声を真似て鳴いた。
「にゃ、にゃん?」
リアクションに困りながら私が同じように返すと、おじさんは満足そうにして、「にゃんにゃん」と言う。
私は愛想笑いをして、元の姿勢に戻る。
このおじさんは、心の崩壊後、猫になって生きることにしたのだろうか。
興味はつきないが、ホームルームが始まってしまった。

カラオケは、歌いたい人が並んで歌う。
私は初めての場所で緊張しているので、聞き手にまわることにした。
猫真似のおじさんは、世界で一つだけの花を、語尾に「にゃん」をつけながら歌った。
歌い辛そうだが、少々苦しくても「にゃん」をつけるのが彼のポリシーなのだろう。
そのあと、ガーデニングに向かうとき、エレベーターでおじさんが隣に立った。
「今日は暑いから、庭仕事も大変そうですね」
と、勇気を出して声をかけてみた。
おじさんはそっぽを向いている。
何か気に障ることをしてしまったのだろうか。
そこに若い女の子三人組が、乗ってきた。
「にゃん太! こんにちはニャン」
「元気にゃん?」
「一緒に行こう、ニャン」
猫おじさんは、「行くにゃん」と、嬉しそうに一緒に出て行った。
ああ、そういうことか、と私は閃き、エレベーターを降りた。

炎天の下、ガーデニング用の花壇の草取りや、ゴウヤの取り入れをして、あっという間に時間が過ぎていく。
喉が渇いたので、近くの自動販売機でアップルジュースを買って飲む。
と、猫おじさんが一人でやってきて、コーヒーを買って隣で飲みはじめる。私はさっき閃いたことを試してみる。
「こんにちは、にゃん」
にっこり、すると、おじさんは驚いた猫の顔になり、
「誰かから、聞いたにゃん?」
「ううん。さっきエレベーターで、もしやと思ったにゃん」
おじさんは目をキラキラさせた。
「俺は、猫語を理解できる人としか話さないにゃん」
語尾に「にゃん」をつけるのが、猫語なのか。面白いおじさんだ。
「俺はにゃん太。髭はあるけど、まだまだ、おじさんじゃないにゃんよ。二十八歳にゃん」
心の中でおじさんと呼んでいたことがバレたのだろうかと、ドギマギしながら、私も自己紹介する。
「私はりん。にゃん太より三つ若いにゃん」
「りんにゃん。よろしくにゃんねー」
猫のくしゃみに似た愛嬌に満ちた笑顔には、魅力がある。
「俺は、三毛猫にゃん!」
「ええー! 三毛のオスって希少にゃん? すごいにゃん」
私の反応は、彼を非常に満足させたようだ。
顎の下の髭を自慢そうに撫でる。
「それで、君は何猫にゃ?」
突拍子もないことを聞かれ、私は大学の路地裏で拾って、すぐ人の手に渡った、黒い子猫を思い出した。
「黒猫にゃん。痩せていて、闇夜で目だけが大きく輝いている。魔女の使い魔のような猫にゃん」
「魔女の使い魔にゃ!?」
にゃん太の驚愕した顔は、何度見ても笑いを誘う。
「うん、にゃん」
「じゃあいつか、魔女に会わせてにゃん」
そう言って、にゃん太は皆のほうへ戻っていく。
そのとき、私は女の子から受け取った三毛猫のぬいぐるみを思い出した。「にゃん太! 七歳前後の女の子の子供さん、いる?」
私が背中に向かって叫ぶと、
「どうしてそんなこと」
猫語を忘れ、真顔で、私に詰め寄る。
「そんなこと、はじめましての君が知っている?」
「朝、病院の横の神社にいたの。私が病院に入ってくのを見て、これをお父さんに渡してって」
私は緑色の包を、にゃん太に手渡した。
にゃん太は急いで包をあけると、手をかざしてじっと見上げたり、丹念に色んな角度からそれを見たあと、頬にあてて号泣した。
「美香」
偶然が重なり、無事に父親に届けられてよかった。
そっとしておいた方がいいだろうと、去り際、にゃん太の携帯が鳴った。「もしもし。え? ――――美香が行方知れず? 警察は? 手配済みか。わかった。俺も俺で探してみるから」
あの女の子が行方不明。
私の心もざわめく。
「ごめんにゃん太。携帯の内容、聞こえてしまって。もしかしたら、あの子、にゃん太に会うために病院の中に入ってきてしまっている可能性もあるんじゃないかな。闇雲に探すより、確率が高い場所を探しましょう? 私も手伝う」
「ありがとう」
私たちは事情をスタッフに話して早退にさせてもらい、病院内を手分けして、病院関係者に手を借りながら細かく探して回った。
一時間くらいたって、病院の入り口で再び出会い、二人は途方に暮れてしまった。
「ごめんなさい。病院じゃなかったのかな。私の推測が間違ったせいで、無駄な時間を」
「いや、いいんだ。病院にはいない、というのがわかっただけでも前進だ。次は駅の方を探してみよう」
「あれ?」
私は気のせいか、微かに誰かのすすり泣く声を聞いた。
「あ! まだ探していない場所、あったわ」

病院の横の小さなお社。小さな鳥居をくぐって、草の生い茂る狭い階段を二人は登っていく。
すすり泣く声は気のせいじゃなかった。古びたお社の背後で、女の子が泣いていた。
「美香!」
女の子は久しぶりの父親の声に、こちらを見て目を見開く。
しゃくりあげながら、少しかがんで両手を広げるにゃん太の胸に飛び込んだ。
「お父さん!」
「大きくなったな。美香」
美香は嬉しそうに、額を父親の胸にすりつける。
「それから、お父さんが大好きな三毛猫。作ってくれありがとう。一生の宝物だ」
「うん」
「そうだ。――なぜ俺がここにいることを知った?」
「車で近くを通った時、お父さんが病院のほうへ歩いていくのを見たから」
「家から一時間以上歩くのに?」
「うん。そのとき道順は覚えたつもりだったの。でも、来れたのに帰れなくて。ここに戻ってきてしまって」
うわーん、と甲高く泣く。
「私は一日だってお父さんを忘れたことなんてないんだよ。どうして急にいなくなってしまったの? 病院に入院しているの? 何の病気?」
にゃん太は答えられず、ひらすら美香の頭を労わるように撫でている。
「そうだ。いつまでもこうしちゃいられない」
にゃん太は無理にも笑顔を作って、美香の体を離した。
「お母さん、美香がいなくなったと思って、警察まで動かしてるからな」
「ごめんなさい」
自分のしでかしたことの大きさを知り、美香は肩を落とし、恐縮してしまう。
「大丈夫。お母さんに、美香を叱らないようにお願いするよ」
そう言って、携帯をかけた。
「え? もうこっちに向かってて、すぐ着く?」
それだけわかると、にゃん太は非常に残念そうに、俯いた。
「もう少しくらい、美香といる時間をくれてもいいのにな、神様も」
「私だってもっと、お父さんの傍にいたい!」
にゃん太はお社の階段に座って、美香に膝を指し示す。美香は笑顔になり、そこに飛び乗る。
「美香、何があっても、お父さんだってお前を忘れたことなんかないんだよ。これからもずっと、一日だって忘れないから」
「――うん」
車が近づいてくる音がする。私はそれが、ただ病院に向かうタクシーであればいいのにと願った。
願い叶わず、赤い車からかなりの美人の背の高い女性が出てきた。
「まさかとは思ってたけど。なんで美香がこんなところにいるの?」
「お母さん、お父さんを責めないで!」
美香が立ち上がり、母親がこれ以上、父親を責めないように、両手でとうせんぼした。
「私、車で見たんだ。お父さんを。だから」
「まさか、それだけで来れるはずないじゃない」
「いや、それは本当のようだ。お願いだ。美香をあまり叱らないでくれ」
「ふん、無関係の人間が、口出ししないで」
にゃん太は、やりきれない様子で首を振り、ため息をついた。
「じゃあ美香、帰るわよ」
母親は冷たく、美香の手を強引にとって階段を降りていく。
「嫌! まだお父さんといたいのに」
「いい? もう二度と、会ったりしないと約束しなさい」
「嫌!」
嫌がって母の手をほどこうとするが、母の握力は思うより強いらしい。
「お父さーん!」
車の前まで連れていかれて、美香は叫んだ。
「お父さん、大好き!」
「――美香」
にゃん太は、涙を溜めて、目一杯笑顔を作った。そして、大きく手を振ってみせた。
「お父さんもだよ! ずっとずっと、な」
「ほら、行くわよ」
母親は美香を車に閉じ込め、にゃん太を睨みつけてから、自分も車に乘ってさっさと発進してしまった。
にゃん太は車が見えなくなるまで手を振り続けた。
きっと車の中のあの子も、それを見ていたに違いない。

しょんぼりするにゃん太に、かける言葉もなく、神社の敷地でしばらく風に吹かれた。
「会ったらいけないんだ」
「え?」
「法的に、俺は二度と、美香と会ってはいけないと決められているんだよ。だから、突然の急性期で強制入院させられてから、この三年、あの子の顔を見ることすらできなかった。―――これからも、きっと」
顔を覆って嘆くにゃん太の話に、私はたまらなく辛くなった。
「美香ちゃん、お父さん大好きだって、叫んでた」
「うん」
「にゃん太も」
「うん」
「私には、にゃん太と美香ちゃんの間には、距離も時間も超えて、お互い大好きでいられる強い絆が、見えた気がしたよ」
それしか言えなかった。
どんなに御託を並べたって、役に立たないとわかっている。
でも何か伝えたかった。
法的に子供に会えないなんて、どんなにキツイことだろう。
胸がキリキリ痛む。   
にゃん太は、私を見て笑った。
「君まで泣くなよ。見るほど泣き顔が不細工だな」
「失礼な」
私は涙を拭いて、頬を膨らませた。
「ここまで付き合ってくれてサンキュウな。悪いがもうちょっとだけ、付き合ってくれないか? 今俺は猛烈に話をしたいんだ」
「いいわよ」
私たちは、歩いて駅の喫茶店に向かった。

汗まみれで店に入る。
クーラーがよくきいていて、生き返るようだ。
窓の傍の机を陣取って、私たちは座った。
「俺の生い立ちは自分で言うのもあれだが、不幸でな。虐待やら貧乏やら、やたら大変だったんだ。だから俺は、大きくなったら誰にも負けない、あたたかな家庭を築くんだって夢を持っていた」
「そう、か。叶ったの?」
「ああ。たった数年な。幼馴染で美人なアイツと結婚して、建築業で肉体労働はキツイけど働く場所があって、小さなアパートに住んで、美香が生まれて」
にゃん太は大きくため息をついた。
「それがな、妻が浮気して、ある日突然、別れたいって言ってきたんだ」
「そんな」
「俺はな、きっと過大に、家族ってもんに期待しすぎてたんだな。それだけに裏切りが許せなくて。離婚届にサインをする前に、急性期を発症してしまってな。発症したのが家の外だったから、美香は何も知らないんだ。強制入院を経て家に戻ると、離婚が成立していて、しかも、美香と会ってはいけないという一方的な取り決めの、書面が手渡されて」
かなり酷い話だ。
「理由、あるんだよね、おかしくなるにも。私もそうだもの」
「りんは?」
「私のお話は、男性には話し辛いの」
「おお、そうか」
にゃん太は申し訳なさそうにして頬をかく。
私は一番安いコーヒーに、ミルクをたっぷり入れたものをストローですする。
「りんも、大変だったんだな」
「うん。でも、にゃん太とはまた違った辛さだと思う」
私は少しでも、にゃん太に元気になってもらいたかった。
だから、言葉をよく選らんで言った。
「失ってしまったものは大きいのに、明るくて、朗らかで、今また誰かのために笑って見せることのできるにゃん太は、強くて偉いと思うな」
「――性分なんだ」
にゃん太は、照れてはにかみ、
「よし、決めたにゃん!」
突然、猫語に戻った。
「りんにゃん、俺は、これから立派な猫として、オスの三毛猫として、生きていくにゃん」
私はつい吹きだして、笑ってしまう。
「おお、俺の決意を馬鹿にしたにゃん?」
「だって急に猫に戻ったから」
「まあ、ともかく、男猫一匹、新たな幸せを探すのにゃん」
美香の作った三毛のぬいぐるみを、胸の前で握っている。
「りんにゃんも、頑張るにゃん」
「うん、ありがとにゃん!」
私たちは握手した。
「今日から俺たちは、猫仲間にゃん」
「――仲間か、にゃん。よろしくにゃん」

こうして、デイケア一日目は、にゃん太の半生に触れつつ、忙しく騒がしく、終わったのだった。
そういえば思い出す。
入院して病院にいたころ、同室のおばさんが一人、ベッドに座って、熱心に書き物をしていた。
娘に渡してもらうのだという。
それから、他人ごとのような諦めきった口調で「私は一生、子供に会ってはいけないの」と言った。
私はその目の前の現実に、二の句が告げなかった。
もしかしたら私のこの病には、そんな風に子供と会うことを禁じられている父、母というものも、多いのかもしれない。
その悲しみを思うとき、私は何度でも、おばさんの寂しい目と、にゃん太の泣き顔を思い出すだろう。

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