短編小説『赤い月』
赤暗い大きな月が、地上近くに在る。
春の宵の風は凪いで生暖かく、どこか不気味だ。
「お母さん、あれ怖い」
学童帰りの子供が、月を指さしてつぶやく。
母親は立ち止まり、つないでいる手をちょっとだけ強めに握った。
「怖くないのよ。あれはね、お月様がやさしいから、あんなお姿になってしまっているの」
「どういうこと?」
「お月様はね、地上で苦しんでいる人たちの痛みを引き受けることで、ああやって赤くて怖い色になるんですって」
「そんな話、聞いたことないよ」
「これはね、お母さんがお母さんに。――この間亡くなったおばあちゃんから、聞いた話なの。おばあちゃんも、お母さんから聞いたって言っていたわ」
母親は、懐かしそうに月をみつめる。脳裏には、昔、母と一緒に歩いた菜の花畑が広がっている。
「お月様は、つらくないの?」
「つらいでしょうね」
かわいそう、と、子供は顔を暗くする。
「私たちが苦しいと、お月様も苦しいのよ。だから、お月様のために、私たちは笑って笑って、過ごしましょうね。そうしたら、お月様も早く元気になるわ」
「わかった」
子供は元気に頷いて、母の手をほどいて、月に向かって両手を振ってみせる。
「早く良くなってね、お月様!」
お大事にと叫ぶ。
先日熱を出して病院に行ったとき、看護師からかけられた言葉を、そのまま月に伝えているのを見て、母親は軽く笑ってしまう。
赤い月も、明日にはきっと、いつもの光を取り戻すだろう。そうしたら、この子はまた、うれしそうに笑うだろう。
母親は思う。
この子には、怖いものをただ怖いと思うより、醜いものをただ醜いとあざ笑うより、どうしてそうなってしまったのだろうかと、イメージする余地をもって生きて欲しい。
母親の母の額には、赤黒い痣があった。心の優しい綺麗な人だったけれど、いつもそれを気にしていた。
いやきっと、母はその痣があるからこそ、余計に人にやさしかったのかもしれない。
「なのはーなばたけーに、いーりーひうすれー」
あらためて、母の手をとって、子供は歌い始める。
大好きな「おぼろ月夜」をこの子に教えたのは、何年前だろう。母親も声を合わせて歌いだす。
そうして脇でそっと赤く輝く月も、ともに家路につくのだった。
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