見出し画像

死ぬ前提で生きる

「死ぬ前提」という生き方を、皆さんは理解できるでしょうか?
明日死ぬと思って今日を精一杯生きろ、というアスリート的な考えとは少々違うかもしれません。

きっかけはわからないのですが、私は誰かと出会うにしても、「この人とはどういう別れ方をするだろう」という意識が同時に芽生えてしまうようになりました。
一番厄介だと思ったのが、恋人ができたときです。相手を好きだという気持ちがお互いに合致し、それではお付き合いしましょうというふうになりますが、次の日から「この人と別れる日、どういうことで別れることになるのだろう。この人に傷つけられ、失望してしまうことがあるのだろうか、逆に私が相手に嫌われるような失態を犯してしまうのかもしれない…」等と最悪のシナリオ作りが始まってしまうのです。なんともおかしな話ですが、別れる前提でのお付き合いが私の中で始まってしまうのです。

こんな自分でも、幸運なことなのか結婚することになったのですが、今はいつか迎えるかもしれない離婚を考えながらの生活をしています。こんなことを考えてばかりいると、自分から離婚へに向かっているような気さえします。
…ほんとうにこればかりは厄介すぎて自分も嫌気がさしているところです。
けれど、この「別れる前提」の生き方が、現在の自分の「死ぬ前提」の生き方に強く結びついている気がするのです。

仲良くなればなるほど、別れまでのタイムリミットが気になってしまう。別れの悲しみは、自分も味わいたくないし相手にも味わってほしくない。その結果、友達をなるべく少なくし、誰に対しても建前上の関係としてでしか接することができなくなります。しかし、どうせいつかは別れるのだから、お互い悲しみに暮れる期間は短いほうがその先の人生も楽だろうとも考えるのです。


同じように、いつか自分は死ぬ。絶対に死ぬ。必ず死ぬと決まっていて、自分がその死に対してどうこうできるのであれば、その権限を使えるうちになるべく自分の手で自分に別れを告げたいんです。

誰だって、不慮の事故や無差別殺人に巻き込まれて死にたいとは思っていないはずなのに、どうして自分で死ぬことも選びたくないのでしょうか。安らかな病死や老衰による死ももちろん理想ですが、結局そこにたどり着くまでの間に痛い思いや苦しい思いをして死ぬことのほうが確率としては高いと思います。私はそんな不確実なものに自分の死を委ねたくないだけなのですが、どうも理解が得られるものではないようです。


こんな考えを持っているのは、かなり後ろ向きな生き方だと思われるでしょう。けれど、死ぬ意識が常にまとわりついていても、楽しみや喜びの気持ちが減るとは思っていません。陳腐な言い方になりますが、ネガティブだからこそ感じられる些細な幸せという出来事だってあるでしょうし…
「生きていてよかった!」なんて思うことは最近の記憶をたどってもありませんが、「まだ死んでなくてよかった~」と思うことはよくあるんです。


え、同じ意味だろうって?なんとなく、少し違うんだよな…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?